ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。

ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。

 息子さんに伝えたいことがまとめられた本・・・印象に残ったところを書きとめておきます。

 

P44

 息子は歩き出し、2歳になり、自我のようなものが芽生えてきた。

 僕はできる限り、息子自身にじっくり選ばせようと決めている。とはいえ、いきなり「どう、どこの保育園がいい?」と選択させたわけじゃない。

 スーパーでお菓子を買うとき、ファミレスで注文するとき、息子が自分で選ぶのを、じっくりと待つ。ルールは、必ず子どもの選択を受け入れること。決して「それじゃなくて、これにしなさい」と自分の意見を押しつけないこと。

 ささやかだけれど、実は大きなことでもあると考えている。

 そんなの理想論だと言う親も、なかにはいるだろう。僕だって「それじゃなくて、こっちにしなさい」と言う親の気持ちはわかる。

 子どもは、食べられないものを選ぶかもしれない。金額的に高いものかもしれない。

 何より、親には時間がない。仕事を大急ぎで切り上げてお迎えに行き、「帰ったらご飯をつくって、お風呂に入れて、洗濯機を2回は回しながらちょっと片付けもしないと」と過密スケジュールをこなしている親が、いつまでもいつまでもお菓子の棚の前で悩み続ける子どもにつきあうのは大変なことだ。

 しかし、「限られた時間のなかで、予算にあった程よいものを的確に選ぶ」というのは大人の合理性だ。僕たちは何かを選ぶときいつもそれに縛られていて、自分の「これがいいな」を忘れている。

 大人の合理性から自由でいられる、わずか数年のわが子の幼児期につきあうというのも、愛情ではないだろうか。

 仕事が忙しい親には時間がない。僕はガンになって仕事が激減したぶん、日中時間はあるけれど、残された人生の時間は多くない。つまりはみんな、時間は限られている。

 それでも自分が持っている時間を、子どものために差し出す。これも親の優しさではないだろうか。

 

P64

 大人になって思う。おそらく学校とは、理不尽さを学ぶ場所なのだと。

 そもそも社会は理不尽なものだから、理不尽さを知らないまま大人になると、理不尽さにやられてしまう。だから僕が息子を学校に行かせる理由は2つ。

 ひとつは、年齢相応のことを経験させるため。

 もうひとつは、予防接種のごとく理不尽さの免疫をつけさせるためだ。

 これ以外、学校に求めるものは何もない。

 

P108

 僕自身は、ほめられたことのない子どもだった。自己肯定感のなさの塊だった。

 たぶん時代のせいもあると思うが、親にも先生にもほめられることがほとんどなく成長した。

 だから、好きなこともやりたいことも、なかなか見つからなかった。控えめに考えても写真家として成功したとは思うが、下積み時代は「日の目を見ないまま終わるんじゃないか」という不安だらけだった。

 ようやく自己肯定感を持てるようになったのは、ニコンの賞をとってからだ。

 親の世代からすると、雑誌や新聞に自分の息子が載ったというのは一大事で、大喜びしてほめてくれた。それで自信までついたわけではなく、逆に「手のひらがえしだ。くだらないな」としか思わなかったけれど、自分の中にくすぶっていた承認欲求が満たされたことで、自己肯定感が芽生えた。

 得てしまえばたいしたことはない通過点だとわかるけれど、得ていなければそれすらわからない。また、自分の承認欲求が満たされないと、人をほめることもできない。

 だから自己肯定感がない人は、まず何か、自分の承認欲求が満たされる行動をするといいのではないだろうか。

 ・・・

 今は僕も妻もほめているけれど、もっと大きくなったら、息子には自分で自分をほめてほしい。そうやってほめられることに慣れれば、人にほめられたとき、「そんなことないです」と否定したり「お世辞だろう」と疑ったりしなくなる。

 自分で自分をほめて自信がつけば、人のこともほめられるようになる。

 自信がある面白い人がお互いをほめ合える世の中は、幸せな世の中だと僕は思う。