進化はきわめて場当たり的、そして自然界はカオスだけれど、ある秩序が・・・という話から、友達が少ない人の割合が圧倒的に多いという話まで、興味深かったです。
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前章では、生物進化の歴史を示す系統樹を紹介しましたが、それも進化論を誤解させる要因のひとつでしょう。過去から順番に樹形図で整理すると、あたかも現在の多様な状態がはじめから「目的」だったかのように見えてしまうのです。
しかし進化の系統樹は、結果からさかのぼって整理した後付けの理屈にすぎません。地球の生物は、いまの状態に向かって計画的に効率よく進化してきたわけではない。それどころか、進化はきわめて場当たり的で無駄の多いプロセスでした。
そのなかでも特筆すべきは、シアノバクテリアの登場でしょう。
それは、地球上に生命が誕生してからおよそ一二億年後(いまからおよそ二八億年前)のことでした。シアノバクテリアがもたらした変化は、この四〇億年の生命史のなかでも最大級の事件です。そのショックは、恐竜を絶滅させた隕石の衝突と肩を並べるほど……いや、それ以上に強烈だったかもしれません。
では、シアノバクテリアはどんなことをやらかしたのか。それは「光合成」です。光エネルギーを使って水と空気中の二酸化炭素から炭水化物をつくる、あの光合成。・・・それを最初にやったと思われるのが、シアノバクテリアでした。
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・・・当時の地球で暮らしていた生物たちにとって、こいつはとんでもなく兇悪な「テロリスト」でした。というのも、光合成はその過程で酸素を発生します。いまや私たちは酸素なしで生きることができないので「ありがとう、シアノバクテリア」などと感謝したくなりそうですが、当時の生物に酸素は必要ありません。それまで地球の大気には酸素がほとんど含まれていませんでした。二酸化炭素で満たされた環境で暮らしている生物にとって、酸素は必要ないどころか、強力な「毒」です。
そんなものを撒き散らすシアノバクテリアが大量に発生したのですから、ほかの生物はたまりません。大いに慌てながら、「このドアホ!」と罵りたかったでしょう。・・・
しかし、毒まみれの環境でも破滅しないのが、生物のしたたかなところです。シアノバクテリアが「酸素テロ」で生物界にアホみたいな打撃を与えたかと思ったら、こんどはその毒を「うまい、うまい」と摂取して生きるアホが次々と現れました。
シアノバクテリアのせいで絶滅に追い込まれた過去の生物種から見れば、酸素を食って生きるなんて非常識もいいところでしょう。でも、非常識だろうが前例がなかろうが、目の前にあるものを使える生物が生き延びるのが進化の掟です。・・・
結果的に、いまの地球上は(嫌気性生物など一部の例外を除いて)酸素がないと生きられない生物の天下になりました。つまり、毒ガスを喜んで吸い込む「非常識なアホ」の子孫たちが大繁栄を遂げたわけです。
そんなアホの子孫のひとつが、私たち人間にほかなりません。自分たちが「非常識なアホの子孫」であることは、カオスの世の中を生き延びる作戦を考える上で重要なヒントになります。
樹形図構造の秩序に縛られていると、「結果オーライ」の生き方はなかなかできません。まず目的を明らかにして、それを実現するために何が必要かを考えて計画を立て、それを着実に実行していく。それが「正しい生き方」になります。
しかし自然界はカオスなので、そのプロセスで何が起きるかは予測できません。みんなが二酸化炭素のなかで生きるのが当たり前だったところに、突如として酸素を吐き出すシアノバクテリアが出現したりするわけです。
そんな環境ですべてを計画的に実現しようとするのは、どう考えても無理な相談でしょう。・・・
バブル経済の崩壊以降、日本社会のなかで金科玉条のごとく推し進められてきた「選択と集中」は、いうまでもなく生物進化のやり方を相容れません。それはいわば「予測と計画」のやり方です。二八億年前の地球で、二酸化炭素に満ちた大気のなかで生きていくことを前提に、その環境で役に立つイノベーションを起こそうとしているようなものでしょう。酸素で生きていくための準備など、誰もしていません。このやり方では、シアノバクテリアのような想定外の脅威が出現した瞬間に、計画が根底から崩壊します。
では、想定外の変化に備えるにはどうすればいいのか。早い話、生物の真似をしてみればよいのです。それは「選択と集中」ではなく、いわば「発散と選択」です。未来のことはわからないのだと割りきって、効率や短期的な合理性をあまり気にせず、いろいろなことをやってみる。そのなかで、うまくいきそうなものを、「ゆるく」選択する。あまりきつく選択して「集中」してしまうと、次の選択肢がなくなってしまいます。それが「生物的」なスタイルにほかなりません。
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では、自然界は単に無秩序な世界なのでしょうか。・・・
・・・近年になって、どうやらそうではないことがわかってきました。カオスは文字どおりの「混沌」ではなく、そこにはある秩序があるようなのです。
・・・自然界にあるさまざまなシステムは、誰が仕組んだわけでもなく「自己組織化」を行っています。何の意思も目的もなく、結果的に「そうなってしまう」にもかかわらず、さまざまなシステムには共通の秩序があるのです。
その秩序の存在は、ネットワークの研究から見えてきました。・・・
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「六人の知り合いを仲介すると、世界中の人と知り合いになれる」
そんな話を見聞きしたことのある人は多いでしょう。これは、ミルグラムの実験結果が元ネタです。・・・
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・・・ミルグラムの実験以降、コンピューターの性能がどんどん発達したこともあり、ネットワークの構造に関する研究が大きく前進しました。
そのなかで最近わかってきたのは、自然発生的なネットワークの「不平等性」です。
もし、ネットワークが特別な秩序のない(つまり偶発性に支配される)ランダムなものだったら、その構造は確率論的に「平等」なものになるでしょう。たとえば、私たちが社会というネットワークのなかで持っている友達の数。それがランダムに決まるのであれば、「だいたい人にはこれぐらいの友達がいる」とみなせる数字が存在するはずです。
もちろん、それが「平等」だというのは、全員に同数の友人がいるという意味ではありません。当然、友達が多い人もいれば少ない人もいるわけですが、だいたい平均値のあたりに属する人がいちばん多くなる、ということです。
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ところが実際に調べてみると、意外にも・・・正規分布と違って、真ん中にピークはありません。突出して多いのは、極端に友達の少ない人。・・・そして、極端に友達の多い人がほんのわずか存在する。とてつもなく顔の広い人が少数しかおらず、友達がほとんどいない人たちがとてつもなく大勢いるのですから、ひどく不平等だと感じるでしょう。
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・・・大半の人には「多くも少なくもないけど、ほどほどに友達がいるはず」というのもごく常識的な感覚。ところが本当は、圧倒的多数が「あまり友達のいない人」なのです。何とも寂しい話ですが、これが人間社会の現実にほかなりません。
そして、このような分布は、ほかのさまざまなネットワークにも見られることがわかりました。・・・
わかりやすい例は、インターネットのウェブページでしょう。・・・
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こうしたネットワークの研究はまだ発展途上ですが、これまでに判明した事実だけでも、自然界の「自己組織化」の秩序を説明する上できわめて有力なものでしょう。その秩序が正規分布を示すランダムなものではないことが見えてきたのは、カオスな自然界を生きるための指針を与えてくれるじつに大きな発見だと思います。