トレーニング、栄養管理など、筋肉と脂肪をめぐる深い話が満載の本。
知らなかったことばかりで、興味津々で読みました。
P149
桑原は前章の通り、江崎グリコが一九九九年に売り出したスポーツサプリメント「パワープロダクション」を開発した中心人物で、・・・現在、江崎グリコから独立して「桑原塾」を取材、コンディショニングやボディメイクのスペシャリストとして活躍している。・・・
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「そもそも僕がトレーニングを始めたのは、最初は商品を実際に試して精度を上げるためでした。ところが、杉田(茂)会長に弟子入りしてボディビルのコンテストに出ると、やっぱり成績を上げたくなる、優勝したくなる。いつのまにかがむしゃらになっているんです。会社員時代は部長職でしたから、役員会議にも出なくちゃならなかったのですが、自分にまったく関係のない会議だと、何食わぬ顔で退席して、空いた場所で筋トレしてから席に戻ってきたりしていました(笑)。そのくらい、僕のなかではトレーニングの位置づけが上になっていった。
じゃあ、なぜ自分はそれほどまでしてトレーニングをするのか。これは深い話なんです」
桑原が本気でトレーニングに取り組みはじめたのは、三十八歳頃だった。それから二十年余り経ち、白髪も増えた、老眼も進んだ、歯も一本抜けた、でも。
「筋量だけは増えているんですよね。たまに棚橋選手と会うと、彼がいまだに言うのは『最初に会った頃の桑原さんはこんな身体じゃなかった、ごく普通の細いサラリーマンだったんだからね』。それを聞くと、まだ進化しているのかなと思えてうれしいんです。もう筋肉以外はすべて衰えている、いや、衰えている自信がある。でも、筋肉については、五十になっても六十になっても対前年比プラスになれる。まずこれが、僕が筋肉にのめりこんでいる大きな理由なのかなと思うんです」
筋肉は、負荷をかけて刺激をあたえなければ、加齢とともに確実に衰えてゆく。しかし、明確な意識をもって負荷をあたえ、同時に栄養や休息の条件を整えれば、高齢者でも筋肥大することが実証されている。
「高齢者だから神経系だけの要因で筋力が上がるということではなく、若い人と同じように、神経系とサイズの両方の要素が改善していくことがはっきりわかってきている」
(『石井直方の筋肉の科学』石井直方著 ベースボール・マガジン社)
つまり、筋肉は何歳からでもつけられる。
筋肉は年齢にかかわらず成長する。この事実が、「筋肉は裏切らない」という言葉の根拠だ。
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「筋肉は、僕はいちばん身近な宇宙だと思っているんです。目に見えない空気や酸素は解明されているのに、すでに自分が持っている、しかも目に見える筋肉が、科学的に解明されていない。まさに筋肉は宇宙です。そもそも筋肉は分解してエネルギーに換える因子が多く、量をむやみに増やさないようにできている。でも、ある環境を整えたら、年齢にかかわらず筋肥大するという秘密の匣を神様がとっておいてくれた。このブラックボックスを僕は開けてしまったから、中身を掴むしかない、そんな心境です」
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「筋肉はお金ではけっして買えない。現代社会ではお金は万能に近いのかもしれないけれど、筋肉はけっしてお金では手に入れられないんです。しかも、どんなに稼いだとしてもお金や物欲には限界がある。いっぽう、筋肉は無限です。この先どのくらい筋肉が増えるのかなと思うと、十年後、六十八歳の自分が楽しみでさえある。だれもがそんなふうに平等に思えるものは、僕の知るかぎり筋肉しかないんですよね」
P358
とても好きな小説の一場面がある。『我が友、スミス』(石田夏穂著 集英社)。二十九歳の女性会社員の「私」が筋トレに打ち込むうち、ひょんな成りゆきからフィジークの大会を目指すことになる。
「腕立て伏せの間、私の胸には奇妙な感慨が芽生えた。多幸感とでも言おうか、私は、自分は幸せだと感じたのである。気の済むまで、誰にも邪魔されず、自分の身体を鍛えられること。それだけの時間と、金と、環境と、平和と、健康な身体が、私の手中にはあること。つまり、私は例えようもなく自由だということ。この瞬間がどこまでも続けば、私は何も言うことはない。そうした多幸感が筋トレ中に湧き上がるのは、これまでにも何度かあった。何やら突然の悟りというか、天からの啓示のように、私は今の状況を、掛け替えのないものだと感じるのだ」