「絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ」がとても面白かった頭木弘樹さんの本、興味深く読みました。
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ここまで、「心」「意識」「魂」「精神」「頭」「脳」などの言葉を、あまり区別せずに使ってきた。
「これらって同じものなのかな?」と疑問に感じた人もいたかもしれない。
なぜこんなにたくさん呼び方があるのか?
それぞれにちがいはあるのか?
たくさんの呼び方があるのは、それだけとらえにくいからだろう。いろんな角度からとらえようとしているわけだ。
言葉がちがうのだから、当然、指し示しているものにもちがいがあるはずだ。
たとえば「精神分析」を「魂分析」と言い換えると、なんだか妙だ。
「大和魂」だと突撃しそうだが、「大和心」だとお茶でもたてそうだ。
さらに、同じ「精神」という言葉でも「魂」という言葉でも、人によって指し示しているものは少しずつちがう。
たくさんの言葉を、たくさんの意味で、たくさんの人たちが使って、とらえられないものを、なんとかしてとらえようとしているのだ。どうしても捕まえられない幻の蝶のようだ。たしかに存在するのに、はっきりつかめない。
・・・
・・・「意識」については、とても興味深い本がある。
『交通事故で頭を強打したらどうなるか?』(大和ハジメ、KADOKAWA)という、著者が実際に体験したことを描いているノンフィクション・コミックエッセイだ。
著者はトラックとぶつかって、体のケガは軽傷だったが、脳に損傷を受け、意識不明となる。
そして、36日が経過し、「病院で目が覚めた」。
彼はそう感じた。そのとき、初めて意識が戻ったと。
しかし、じつは事故から14日目には、すでに意識が戻り、会話をしていたのだ。食事もし、リハビリもし、囲碁もし、ピアノも弾いていた。
そのことを知って、彼はとても驚く。
誰が体を動かしたのか?
私が私であると思っていた「この」人格―意識―
この意識は「大和ハジメ」そのものであると思っていた
この体は「大和ハジメ」が自由に動かせると思っていた
が
違ったのだ
「私の中」に脳という器官が存在するのではない
「脳」の一部の機能として私が存在するに過ぎないのだ
「私」の意識が戻っていない間の会話は、いつもの「私」とはちがう。
たとえば、こんな感じだ。
姉「何が食べたい?」
私「…………梅シリーズ」
姉「シリーズ……?」
母「今 食べたいものは?」
私「ホワイト」
母「ホワイト……チョコレート?」
私「冷たいやつ」
母「ああ……アイスクリーム?」
私「うん」
梅にシリーズをつけたり、アイスクリームをホワイトと呼ぶのは、なかなかふつうはできない。
しかし、ちゃんと質問に答えてはいる。会話としては成り立っている。
このとき会話しているのは、いったい誰なのか?
「私の中」に脳という器官が存在するのではない
「脳」の一部の機能として私が存在するに過ぎないのだ
という著者が到達した意識は、衝撃的だ。
ふつう、意識=私だと思っている。私の中に脳があると思っている。そういう常識が、ひっくり返される。
「意識」「私」「脳」という言葉を使って、自分の置かれた状況をなんとかとらえようとしている、とても貴重な体験談だ。
次は「心」「頭」「脳」という言葉を使っている例。
三木成夫という解剖学者がいる。今の人間の体を調べるだけでなく、生命進化を重ねあわせて研究しているのが特長で、とてもおもしろい。
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その三木成夫によると、体は大きく2つに分けられる。「内臓系」と「体壁系」だ。
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そして、「内臓系の中心に心臓が、体壁系の中枢に頭脳がそれぞれ位する」(ちなみに、死には「脳死」と「心臓死」があるが、それぞれ体壁系の死、内臓系の死ということになる)。
・・・
・・・三木成夫は「こころ」について、「『内臓』を抜きに考えることはできない」と語っている。
こころで感じることを、なにか具体的に表そうとすれば、ごく自然に〝胸の奥から〟とか〝肚の底から〟というでしょう。これはまさに胸部内臓と腹部内臓―つまり「からだの奥底に内臓されたもの」との深い共鳴を言い表したものではないでしょうか……。このことは「こころ」の漢字の「心」が心臓の象形であり、しかも、この心臓が内臓系の象徴であることを思えば、いっそう明らかになると思います。
〝アタマ〟が前者の体壁の世界に属したものであるとすれば、あとの〝ココロ〟は、あくまでも後者の内臓の世界に根を下ろしたもの……と、こうなるわけです。
〝切れるあたま〟とはいうが〝切れるこころ〟とはいわない。また〝温かいこころ〟はあっても〝温かいあたま〟はない。つまり前者の「あたま」というのは、判断とか行為といった世界に君臨するのに対して、後者の「こころ」は、感応とか共鳴といった心情の世界を形成する―一言でいえば、あたまは考えるもの、そしてこころは感じるもの、ということです。
・・・三木成夫は、脳のある体壁系に「アタマ」が、心臓のある内臓系に「ココロ」があると考えているわけだ。
なお、「精神」については、こう書いている。
「『精神』という言葉が、ある時は〝あたま〟ある時は〝こころ〟の意味に用いられる」。