自分を「あいだ」の存在と考えてみてはどうだろう?

自分疲れ: ココロとカラダのあいだ シリーズ「あいだで考える」

 自分のなかにいろんな年齢の自分がいる、自分を「あいだ」の存在と考える・・・この辺りも印象に残りました。

 

P84

 特別養護老人ホーム「よりあいの森」などの所長をしている村瀬孝生の書いた『シンクロと自由』(医学書院)に、100歳の女性のこんなエピソードが載っている。

 

 お婆さんは夜中になると2~3歳の幼児になった。

「おかあさ~ん、おかあさ~ん」と今にも泣き出しそうな甘えた声を上げる。(中略)お婆さんのなかに生きる幼児が現れたらしい。ふと、目覚めるとお母さんがいない。不安になる幼子。当時の気持ちが、いま感じている不安と同調したのだろう。

 夜勤者は22歳の女性。彼女はお母さん的対応をとった。

「どうしたの、フミちゃん」

 お婆さんは、「ああ、お母さん来てくれた!」と大喜びし、彼女の首に抱きついた。そして、こうささやいた。

「お母さん、入れ歯がないの」

 

 このとき、この100歳の女性は、2歳でもあり100歳でもあったわけだ。同時に両方でありうるということに驚いた。

 こういう出来事に遭遇して、所長は自分自身についてもこう考える。

 

(前略)すべての世代の「わたし」が生き続けているのではないだろうか。57歳のぼくの体には、0歳も、13歳も、22歳も、45歳も存在している。ぼくは多世代人格によって成っている。

 しかしながら57歳であるぼくは、年齢の概念に縛られて年相応の振る舞いをするように、ぼく自身に命令する。それができないと社会から一人前の大人として扱ってもらえないからだ。ややもすると病気と診断されかねない。よって、お店のショーウインドウに喉から手が出そうなほど欲しい物があっても、駄々をこねないようにしている。

 

 言われてみると、みんな、そうではないだろうか?

 私も自分の中にいろんな年齢の自分がいると思う。「いやだ、いやだ」と子どものようにだだをこねたいときもある。

 いろんな年齢の自分がいるという意味でも、心の数はかなりたくさんなのかもしれない。

 

P138

 世の中には曖昧なことがたくさんある。

 ・・・

 ・・・曖昧さにどのくらい耐えられるか。それを心理学では「曖昧さ耐性」と呼んでいる。「曖昧さ耐性」の高い人は曖昧さに耐えることができ、「曖昧さ耐性」の低い人は曖昧さに耐えることができない。

 どちらのほうがいいかというと、「曖昧さ耐性」は高いほうがいいのだ。

 なぜなら、確実に未来を予測することは不可能だし、人の気持ちを完全に知ることも不可能だし、人生は基本的に曖昧なものだからだ。

 ・・・

 この章の最初で「心と体を分けずに、心体としてひとつに考えてみることを提案したい」と書いた。

 心も体も、「自分」を理解するために分けて考えるようになっただけで、本当はひとつのものだ。

 分けて考えた後は、あらためてひとつとして考えてみることも必要だ。

 しかし、これまで見てきたように、分けたものをまたひとつにというのは、口で言うほど簡単ではない。

 私たちはもう、自分を心と体に分けて考えることに慣れている。

 今さら、ひとつに考えるのは難しい。

 では、どうするか?

 新たな提案だ。

 心も体も、「あいだ」ということを考えてみてはどうだろうか?心と体のあいだは「グラデーション」なのだと。

 ・・・

 自分とは心なのか体なのかという難問も、「そのときによって、どちらもありうる」ということになる。

 心が体をあやつっているのか体が心をあやつっているのかという難問も、「そのときによって、どちらもありうる」ということになる。

 本当の自分とは、という難問も、「そんなものはなく、そのときどきの自分がいるだけだ」ということになる。

 ・・・

 心と体のあいだだけでなく、なにかにつけて自分を「あいだ」の存在と考えてみてはどうだろうか?

 やさしいとつめたいのあいだ。かしこいとおろかのあいだ。勇気と臆病のあいだ。誠実と卑怯のあいだ。○○と○○のあいだ。決してどちらか一方なわけではなく、そのグラデーションを行き来しているのだ。

「自分はこういう人間だ」と固定的に考えるより、「あいだ」の存在と考えるほうが、自分疲れもましになるのではないかと思う。

 自分のことを「あいだ」の存在と考えるということは、他人のこともそう考えるということだ。

「あいつはこういう人間だ」と固定的に考えるのではなく、昨日のあいつはコーヒーが濃い目のカフェオレだったけど、今日はどういう濃度かわからないと、曖昧にとらえてみる。

 曖昧さがつらく感じられるかもしれないが、意外に人間関係が少し楽になるかもしれない。

 ストレッチやヨガをやってみて驚いたのは、多くのポーズが、自分がこれまで一度もやったことのない姿勢や、体の動かし方を必要とすることだ。

 逆に言うと、体のつくりとしては可能なのに、これまでの人生で一度もそういう動きをしてなかったのだ。

 そのことに衝撃を受けた。自分って、自分の可能性をすべて使って生きているわけではないんだなと。

 体はもっといろんな動きができるはずだし、心だってそうだろう。もっといろんな心のありようがあるはずだ。

 つまり、私たちは、じつはかなり決まりきった範囲でしか、心と体を動かしていない。

 心と体には、そしてその「あいだ」には、まだまだ未知の領域があるはずだ。その未知の領域に、ぜひ踏みこんでみてほしい。

 体と心をフルに使ってみてほしい。

「あいだ」に目を向けてみてほしい。

 決まりきった動きしかしていないと、体がこって疲れるように、

 ストレッチやヨガで、疲れがほぐれるように、

 決まりきった自分でいるよりも、

「あいだ」を漂っているほうが、

 自分疲れもとれると思うのだ。