皮膚感覚が自他を区別する

皮膚感覚と人間のこころ (新潮選書)

 くすぐったく感じるメカニズムが不明って、面白いなーと思いました。

 

 P143

 さて皮膚感覚、とくに触覚と呼ばれる感覚は、自己と環境の認識においてどのような役割を担っているでしょうか。触覚は身体感覚と強く結びついています。・・・皮膚感覚は身体感覚と共同して自己と他者を区別します。皮膚感覚は、私と環境、私と他者、私と世界を区別する役目を担っているのです。

 自己と他者を区別する皮膚感覚は、その役割のためでしょうが、意識と強く結びついています。他人にくすぐられた場合、くすぐったいという強い情動が生まれますが、自分で自分をくすぐっても、くすぐったくはありません。この現象についてはブレイクモア博士の仮説があります。・・・自分で自分をくすぐる、という動作に際して脳の運動野、つまり動作を惹起する場所が活性化されると、感覚に寄与する脳の部位である感覚野の作動、つまり感じるという機能が抑制される、というのです。そのメカニズムは不明ですが、くすぐったい、という感覚が生じるためには、それが他者によってなされた行為であるという意識が必要です。

 このように、皮膚感覚には常に自己と他者の区別が付随します。・・・

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 視覚、聴覚、味覚、嗅覚といった他の感覚は、意識の影響を受けにくいと思われます。例えばあなたが若い男性だと仮定します。魅力的な女性が来ている赤いドレスも、大男の強盗が振り上げる赤い鉄パイプも、どちらもあなたには赤く見えます。また、ピアノの音は、演奏の技術の違いはあっても、あなたがピアノの音を知っているなら、誰が弾いてもピアノの音に聴こえます。あるいは誰がくれても砂糖は甘く、塩はからい。視覚、聴覚、味覚に比べると、嗅覚はやや意識の影響を受けるといえそうです。前述の自分と他人の排泄物に対する意識の違いがその例です。一方、皮膚感覚は意識の影響をさらに強く受けます。魅力的な女性に手を握られた時と、強盗に手を握られた時とでは、たとえそれが同じ強さであったとしても、あなたは全く異なる皮膚感覚、あるいは情動を覚えるでしょう。

 私は皮膚感覚の研究は他の感覚の研究に比べて遅れていると思っているのですが、その理由の一つが、このように個人の意識の影響を強く受けるためであると考えています。

 前述のように、皮膚感覚は自己と他者を峻別する重要な感覚です。またそれは自己意識と密接なつながりをもっています。意識は脳という臓器だけでは生まれません。身体のあちこちからもたらされる情報と脳との相互作用の中で生まれるのです。とりわけ皮膚感覚は意識を作り出す重要な因子であるといえるでしょう。

 皮膚感覚を異常な状態にする装置があります。例えばアイソレーションタンクというものです。内部は体表温度と同じ三四度に保った濃厚な硫酸マグネシウムの水溶液で満たされ、光や音が遮断されていますが、呼吸はできるようになっています。裸で中に入ると、ふわりと身体が浮きます。この状態では視覚、聴覚、そして皮膚感覚がほぼ遮断されています。このタンクに入った経験者は自我や身体感覚が示す自己の空間的位置が自己の身体から離脱する、という体験を記述しています。・・・あるいは、宗教学者鎌田東二博士は、滝に打たれる行の後で、やはり自我と自己の空間的位置が、自己の身体からずれた経験を語っています。・・・これらの現象を勘考すると、今、ここにいる私、という意識をもたらすのも皮膚感覚であるように思われます。

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 ・・・自分の身体が現在ある位置に存在する、と正しく認識するためには、右脳の側頭―頭頂接合部が重要な役割を果たしているようです。私たちはこの部位で身体からの感覚情報を統合しているらしい。そこが刺激を受けると、やはり体外離脱を体験することになるようです。・・・皮膚感覚と側頭―頭頂接合部との関係をさらに調べていけば、いわゆる身体感覚、言い換えれば自分の身体がそこにある、という意識が生み出される一連のメカニズムが明らかになるでしょう。

 皮膚感覚は自他を区別し、空間における自己の空間的位置を認識させる。皮膚が自己意識を作っている、と言っても過言ではないでしょう。