究極の選択

究極の選択 (集英社新書)

 桜井章一さんのエッセイを読みました。

 印象に残ったところを書きとめておきます。

 

P37

 南の孤島にある村や、ジャングルの奥地でひっそりと生活を営む集落など、太古の人類さながらの生活を今も続けている地域、そしてそこに生きる人々は、私の思う〝理想郷〟に近い生活を送っていると思う。

 狩猟時代さながらの暮らしをしている集落は当然のことながら自給自足で、いくつかの家族が集まって共同生活を送っているはずである。

 狩りや漁で獲ってきたものは自分のものではなく、みんなで分け合うもの。私たちの社会のような分捕り合戦や独り占めなどはこういった社会には存在しない。

 村人の中には魚を獲ることが誰よりも上手な人もいるだろうが、そういった人は別に自慢もしないだろうし、周りから〝優秀である〟というような評価も受けないだろう。そしてその魚を分けてもらったほうも「ありがとう」とは言わない。そんな社会には、私たちの社会で重要視される〝努力〟も〝向上心〟も無い。

 このような共同社会だと〝悪〟の要素は限りなく少ない。なぜなら、そんな社会には〝善〟の要素も限りなく少ないからである。

 分ける、与える、譲る。そういった感覚が〝善〟としてではなく、当たり前に存在している社会には〝悪〟も存在しない。こういった原始的な社会こそが、私の考える理想郷なのだ。

 

P104

 人の一生は長く生きることよりも「どう生きたか?」のほうが重要だと思うし、私自身、常に〝今〟を大切にして生きてきた。だから、七〇歳を過ぎて、「もう十分だな」と感じているし、自分が一〇〇歳になった姿などはまったく想像できない。

 そもそも、「長生きしたい」とか「どう老後を生きるか」といったことばかり考えず、今を大切に、今を楽しく生きていれば、変な妄想も幻想も出てきやしない。

 もっとも、この社会で今を大切に楽しく生きていくことはなかなか難しい。それは、絶えず将来の目標を掲げることを迫られるような環境にあるからだ。仕事では常に目標が立てられるし、生活では将来予想される出来事や変化に備えていろいろな目標を持たざるをえない。そんな空気に拍車をかけているのがネットやメディアから発信されるおびただしい情報だ。

 このように現代人は非常に頭でっかちな生き方をしているが、頭というのは基本的に過去を振り返ったり、未来を想ったりする機能を持っている。だから、今を楽しむという生き方に変えていきたいのなら、頭を休めて感覚を動かす時間をできるだけ持つようにすることだと思う。

 頭には時計が入っているが、感覚の世界に時計はない。そんな感覚を立ち上げ、どれだけ「生」を味わい、楽しめるか、そこに未来や過去の呪縛から離れるヒントがあるのではないだろうか。

 

P107

 寝たきり状態までいかないにしても、齢を重ね、老いていくと体のいろんなところが動かなくなってくるし、思ったような動きも取れなくなっていく。今の私はまさにそのような状態にあるが、だからといってそのことを嘆いたり、悲しんだりはしない。「あ、こんなふうに体は衰えていくのか」と感じつつ、「では、その中で何ができるか」を考える。

 若いときにはいろいろできる楽しさがあるが、年を取ったら取ったなりの楽しみ方というものはある。

 ・・・

 体のあちこちが故障し、思うように動かせなくなっているが、それでもまだいろいろな可能性が残っている。そんな可能性がまだあることに感謝しながら、一方で「こんなことができなくなっている!」というのが増えていくのをどこかおもしろがっている自分もいる。そんなことを日々感じながら、気がついたら「死」の中にいるというのが、今の私が想う理想の死に方である。

 

P110

 私は道場で原稿を書いているときも、耳では道場生たちの打つ「牌の音」を聞いている。それぞれの発する牌の音を聞いているだけで、その卓ではどのようなことが起こっているのかだいたいわかるし、「今日はあの道場生は調子がいいな」「会社で何かいやなことでもあったのかな」といった道場生の内面も見えてくる。

 何もこれは私だけに備わった特別な力ではない。みなさんはあまりにも〝視覚〟からの情報に頼りすぎ、「〝聴覚〟で見る」という力を閉じてしまっているだけなのだ。

 聴覚は視覚に比べ、意識の深い部分、すなわちより本能に近いところにつながっていると思う。だから、視覚に頼るより、聴覚を鋭くしたほうが、生の世界を純粋につかむことができる。

 

P196

 先にも触れた通り雀鬼会の麻雀は政治色と経済色をなるべく排し、できるだけきれいな水を上手から流していこうとするものである。

 道場生たちが汚い選択を続けていれば、麻雀卓に流れる水は瞬く間に淀み、悪臭を放ち出す。まさに人生の選択も、麻雀における選択も、本質的にはまったく変わらない。

 損得勘定に則った選択や権力を使った選択など、世間に横行する汚い選択はできる限りしないようにすれば、人生の流れもきれいなものとなる。

 そういった選択を続けていれば、選択に「余裕」というものが生まれ、「負けるが勝ち」ではないが「損するが勝ち」という選択があることにも気づけるだろう。

 世間の人々は「得」ばかりを求めているから余裕が無くなり、間違った選択をし、結局「損」をすることになっている。だから時には「今日はこの〝損〟を選んでみようか」と自ら進んで損をすることが大切なのだ。

 たまには「損」なほうを選択してみたらどうだろうか?そうすればきっと「損するが勝ち」の結果があることにも気づき、それまでの間違った選択に積もった汚れを洗濯できるかもしれない。

 

P201

 この私も、七〇年以上に渡る長い人生の中で、いろんな選択をしてきた。

 幼いころから私の選択の基準は変わっていない。

 私の選択の基準、それは、「おもしろいか、つまらないか」。それだけ。

 だから、ちょっと厳しい道でもそっちのほうがおもしろそうならそっちを選んだ。「こっちが得だから」とか「こっちが楽だから」といった基準でものごとを選んだことは正直、ほとんどない。