生死問答

生死問答-平成の養生訓 (平凡社ライブラリー)

五木寛之さんと帯津良一さんの対談集です。

印象に残ったところを書きとめておきます。

 

P36

五木 私はむかしから、人間がこの世に生をうけて、生きていられるということじたいが、じつに、ありえないくらい貴重なことであると痛感しています。立派な仕事をするから尊いのではない。ただ息をしているだけですばらしいのだ。どんなにつらいことがあっても、一日死なないで夜を迎え、またつぎの朝には目をさまして、一日を生きるという行為が尊いのだ、と考えてきました。

 しかし、率直な自分の実感から言うと、闘病生活をつづける人に対して、尊敬をすると同時にまた、不思議にも思ったりします。そんなに苦しいんだったら、いっそこの世から、早く気持ちよく去っていこうと、思わないのだろうかと。私だったら、病院に入院しただけで、気持ちがなえて、生きる意欲をなくしてしまうだろうと思うんです。

帯津 そうですね。たしかに生きる意欲をなくして、うつ状態に、あるいは自暴自棄に陥ってしまう人はいるにはいます。しかしそれは、苦しいからではなく、多くの場合は医師のひとことが原因なのです。余命一ヶ月だとか、もう治療法がないといった、患者さんの希望を無残にも奪いとるひとことですよ。

 こういうことをいったら、もう医療とはいえないのですよ。

 ・・・

 どんなに苦しくとも、患者さんというものは、今日よりもいい明日をとばかりに、一筋の光明を抱いていますよ。

 なにかそこに生命の本質というものを感じますね。

 

P111

帯津 「人間は、老いて死ぬのではない。老いて死んだ人を見ているから老いていくんだ」といわれますが、たとえば十歳で老いている人もいるし、生命とは、個別なものです。肉体ではなくて、命のレベルを見ないとだめだと思うんです。百歳でも養生して、元気はつらつに死んでいくこともできるんじゃないでしょうか。

五木 明日死ぬとわかっていてもするのが、養生。するときめた人は、やはり死ぬ時間までやっていたいものです。

 ・・・

 ・・・私も養生をして、そして、なるべく周囲にめいわくをかけずに美しく死にたいと願ういっぽうで、先ほどの「生命の核」のことを考えると、命というのは、自分のなかにあって、じつは自分のものではないのではないかと感じることがあるんです。よく神からいただいた命という考えがありますね。

 ・・・

 そうすると、年老いて若い者から厄介者あつかいされても、どんなに醜くなっても、病気で家族に負担をかけても、見るべきものは見て、感動することがなくなってきても、命が肉体に留まって、生きているかぎり自死は選ばないで、行きつくところまで行ってやろうという思いもありますね。自分のなかで、非常に矛盾しているものが渦巻いている感じです。

帯津 それこそ、〝あるがまま〟ですね。ただ、日ごろ養生していると、いいころあいで、うまいぐあいに死ねるのではないか……とも思いますが。

 

P130

五木 ・・・先ほども話に出たディーパック・チョプラですが、彼が『ライフ・アフター・デス』(サンガ)という本のなかで「生と死」について、きれいな言葉でつづっています。

「人間は壁の内側で生きていますが、壁の向こうには未知の無限の可能性が存在しています。」

「死は素晴らしい贈り物です。なぜならば、あらゆる扉や窓を一斉に開け放してくれるからです。死ぬことで、人間は壁の外側に出て行かざるをえなくなります……。」

 

P168

五木 親鸞は、「わが計らいにあらず」という言葉をのこしていますが、ひとの人生のできごと、生老病死を考えると、私はいつもそのことを思います。

 人生、「なるようにしかならない」、そして、さらに「しかし、おのずとかならず、なるべきようになるのだ」と心のなかで納得します。そうすると、不思議な安心感がどこからともなくやってきますね。

 

P221

五木 帯津さんとは、『健康問答』『養生問答』のシリーズを通して、いろいろなことを語ってきました。この『生死問答』では、現在、世間で話題になっている健康法を取り上げて、ホリスティック医学の立場では、いったいどうなのかという見解をうかがいました。

 そこからでてきた結論は、「人はそれぞれ異なった存在である。それを十把一絡げでひとつの意見をおしつけるのはおかしい。百人百様のやりかたがあるはずだ。だから、定説も一回疑ってかかろう」というものでした。

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 そこで学んだことは、我々が物質だと思っていた肉体のなかにも、目に見えない命の場があり、じつは、それが健康に深い影響をもっているということ、そして、生と死は、私たちの細胞レベルでは、毎日くり返されているということ。

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帯津 ・・・これからの養生は、「肉体をこえて永遠につづくいのちそのものを、積極的に育んでいく」攻めの養生じゃなければならないと考えているんです。

五木 そのために、必要なものはなんでしょうね。

帯津 これはもう、五木さんもくり返しおっしゃっている「予感」と「直観」です。これはまさしく虚空から送られてくるシグナルです。予感と直観の声にしたがって生きていけば、まちがいなく元気に死後の世界に還っていけます(笑)。

 ・・・

五木 ほんとうですね。悪い予感にしろ、いい予感にしろ、自分の心がからっぽで、直観がひらめくときは、よくあたります。

帯津 そうですね。心がからっぽになると、そこに虚空からの生命のエネルギーが、いきおいよくそそがれるような感覚をもちますね。私が気功を毎日かかさずやるのも、そういうわけなんです。生命の場と一体化するようになるんです。