私?自分?

猫背の目線 (日経プレミアシリーズ)

 この辺りも印象に残りました。

 

P178

 ・・・絵を描いている時はなるべくアタマを使わないようにしている。アタマを使うのはむしろ制作に入る前だ。現代美術の作家の中にはアタマから入る人が多いが、ぼくの場合は直観とアタマというか理性の混合ダブルスみたいなところがある。先ず初めに直観ありきだ。次にその直観に対して本性が直観と取り引きをする。この取り引きが実は重要なのである。直観だけでもダメ、アタマだけでもダメ。やはり両者のバランス感覚が必要である。

 ・・・

 アタマで生きていると、自分と他者を分けてしまいがちになる。自分と自分でないものを分別して、自分にふさわしくないものはつい否定してしまう。そして色んなものがバラバラに存在していると思いがちである。バラバラが集まってひとつになっていると思えてしまうのである。本当はひとつのものが仮にバラバラになっているに過ぎないのに、自分と自分でないものを分けてしまうとこんな風なものの考え方にならざるを得ない。そして知らず知らず煩悩に振り廻される心を作ってしまうようだ。

 そして煩悩に振り廻されているこれこそ俺だとか言うわけだが、本当はそんな俺なんてどこにもいないはずだ。そう思っているのは心の働きがそうしているだけで結局は仮構を現実だと思っているのと違うやろか。

 

P187

 絵画を創作するときは鑑賞者という対象はアタマにない。まして鑑賞者を喜ばせたいというような心も毛頭ない。第一描いた作品が発表されるかどうかさえ定かでない。このように考えるとどうもぼくの中に分離された二人の創作者がいるように思えるのだ。この複数の「私」は創作の対象によってどちらかが選ばれる。自分が選ぶというより対象それ自体が二人の「私」のどちらかを選択するのである。どちらが出番が多いかは別だ。普段は絵画制作をする私の出番の方が多いが、時には大衆的なメディアに関わる私もどこかで待機している。もしかしたら出番がないかも知れないが、別にもう一人の私は片われのことを気にすることもない。

 本当は二人だけの「私」ではなくもっともっと大勢の複数の「私」がいることもぼくは知っている。これらの複数の「私」は何も創作にかかわるためだけでない。ありとあらゆる生活の現場でも現れているように思う。このような「小さい私」が沢山集まって「大きい私」がいることも知っている。ところでこの「大きい私」とは一体どういう私なのだろう。「小さい私」は小さい自我の集団みたいに思えるし、「大きい私」は私の中核にドンと腰を据えた本性みたいな存在のようにも思える。

 

P192

 古希を迎えると考えることは体のこと、病気のこと、健康のこと、老いのこと、死のことばかりの暗い話になってしまうことが多いが、一方老境ほど充実した時間はないという賢者もおり、若い頃には絶対味わうことのできなかった素晴らしい人生が待っているといわれると、ホンマカイナと思わせられる。ホンマかウソかは別にして大方の人が通らなければならない道である。だったらうんとこの期間を楽しめばいいじゃないか、ひとつ人生を遊んでやろうじゃないかという生き方を考えた時、「嫌なことはしない 好きなことだけをする」というところにしぼられていった。