どこまでがリソースでどこからがノイズか?

数学する身体(新潮文庫)

 この研究結果、面白いなーと思いました。

 

P36

 ここで紹介したいのは、・・・人工進化の研究の中でも少し変わったもの、イギリスのエイドリアン・トンプソンとサセックス大学の研究グループによる「進化電子工学」の研究である。通常の人工進化が、コンピュータの中のビット列として表現された仮想的な個体を進化させるのに対して、彼らは物理世界の中で動くハードウェアそのものを進化させることを試みた。

 課題は、異なる音程の二つのブザーを聞き分けるチップを作ることである。人間が設計する場合、これはさほど難しい仕事ではない。チップ上の数百の単純な回路を使って、実現できる。ところが彼らはこのチップの設計プロセスそのものを、人間の手を介さずに、人工進化の方法だけでやろうとしたのだ。この際、彼らが用いたのはFPGAField Programmable Gate Array)という特殊な集積回路である。

 FPGAには、「論理ブロック」と呼ばれるプログラム可能な論理コンポーネントが複数配置されていて、ソフトウェアを用いてその配線を自由に再構成することができる。エイドリアンらは目指すタスクを達成すべく、FPGAの配線を人工的に進化させたのである。結果として、およそ四千世代の「進化」の後に、無事タスクをこなすチップが得られた。決して難度の高いタスクではないので、それ自体はさほど驚くべきことではないかもしれない。が、最終的に生き残ったチップを調べてみると、奇妙な点があった。そのチップは百ある論理ブロックのうち、三十七個しか使っていなかったのだ。これは、人間が設計した場合に最低限必要とされる論理ブロックの数を下回る数で、普通に考えると機能するはずがない。

 さらに不思議なことに、たった三十七個しか使われていない論理ブロックのうち、五つは他の論理ブロックと繋がっていないことがわかった。繋がっていない孤立した論理ブロックは、機能的にはどんな役割も果たしていないはずである。ところが驚くべきことに、これら五つの論理ブロックのどれ一つを取り除いても、回路は働かなくなってしまったのである。

 トンプソンらは、この奇妙なチップを詳細に調べた。すると、次第に興味深い事実が浮かび上がってきた。実は、この回路は電磁的な漏出や磁束を巧みに利用していたのである。普通はノイズとして、エンジニアの手によって慎重に排除されるこうした漏出が、回路基板を通じて伝わり、タスクをこなすための機能的な役割を果たしていたのだ。チップは回路間のデジタルな情報のやりとりだけでなく、いわばアナログの情報伝達経路を、進化的に獲得していたのである。

 物理世界の中を進化してきたシステムにとって、リソースとノイズのはっきりした境界はないのだ。・・・

 人間が人工物を設計するときには、あらかじめどこまでがリソースでどこからがノイズかをはっきりと決めるものである。この回路の例で言えば、一つ一つの論理ブロックは問題解決のためのリソースだが、電磁的な漏れや磁束はノイズおして、極力除くようにするだろう。だが、それはあくまで設計者の視点である。設計者のいない、ボトムアップの進化の過程では、使えるものは、見境なくなんでも使われる。結果として、リソースは身体や環境に散らばり、ノイズとの区別が曖昧になる。どこまでが問題解決をしている主体で、どこからがその環境なのかということが、判然としないまま雑じりあう。

 物理世界の中を進化してきたヒトもまた、もちろんその例外ではない。ともするとヒトの思考のリソースは頭蓋骨の中の脳みそであって、身体の外側はノイズであり、環境である、と思われがちだが、簡単な電子チップですら、その問題解決のリソースは、いともたやすく環境に漏れ出してしまうのである。だとすれば、四十億年の進化プロセスを生き残ってきた私たちの「問題解決のためのリソース」は、もっとはるかに身体や環境のあちこちに沁み出しているはずである。