数学する身体

数学する身体(新潮文庫)

 読みたいなと思いつつ、先延ばしになっていた本を読みました。

 味わい深かったです。

 

P30

 数学科に入りたての頃、飲み会に参加して居酒屋の下駄箱が素数番から埋まっていくのに驚いたことがある。素数というのは、1と自分以外では割り切れない数のことで、理論的にはかなり特別な数だ。

 ・・・

 なぜか数学をしていると、そんな素数に、特別な愛着が湧いてくる。数学好きが集まると、下駄箱も自然と、素数番から埋まっていくことになるのである。

 実用上は17と18とで、どちらが優れているということもないだろう。ところが、理論上はやっぱり17の方が「特別」だ。この素数とそうでない数の間に著しい差異を感じる感性は、数を道具として使う上では無用かもしれない。だが、道具としての〝数〟も、それを繰り返し用いているうちに、自然と「親しみ」の情が湧いてくる。そうして、当初は「使う」ためのものだった〝数〟が「味わう」べきものになる。

 

P32

 mathematicsという言葉は、ギリシア語のμάθηματα(学ばれるべきもの)に由来する。それは本来、私たちが普通「数学」と呼んでいるものよりも、はるかに広い範囲を指す言葉であった。これを、数論、幾何学天文学、音楽の「四科」からなる特定の学科を示す言葉として用いたのは、古代ギリシアピタゴラス学派の人々だと言われている。

 ・・・

 μάθηματαが「学ばれるべきもの」という意味だというのはよいとして、そもそも「学ぶ」とはどういうことか。

 学びとは、はじめから自分の手許にあるものを掴みとることである、とハイデッガーは言う。同様に、教えることもまた、単に何かを誰かに与えることではない。教えることは、相手がはじめから持っているものを、自分自身で掴みとるように導くことだ。彼はそう論じるのである。

 ややわかりにくいかもしれないが、ハイデッガーの言うことを、私はこんなふうに理解している。すなわち、人は何かを知ろうとするとき、必ず知ろうとすることに先立って、すでに何かを知ってしまっている。一切の知識も、なんらの思い込みもなしに、人は世界と向き合うことはできない。そこで、何かを知ろうとするときに、まず「自分はすでに何を知ってしまっているだろうか」と自問すること。知らなかったことを知ろうとするのではなくて、はじめから知ってしまっていることについて知ろうとすること。それが、ハイデッガーの言う意味でのmathematicalな姿勢なのではないだろうか。

 

P80

 ・・・一九世紀に入ると、記号と計算の力に牽引されて奔放に発展していく数学を、その基礎から見直す動きが生まれる。何より、微積分学の発展によって古代ギリシア人が慎重に回避してきた「無限」にかかわる議論が数学の中心舞台に踊り出し、素朴な直観にばかり頼ってはいられなくなってきたのだ。伝統的な幾何学はあくまで有限の広がりを持つ図形を対象としていたし、そもそも人間が経験できる世界は有限である。だが、そんな経験世界の有限性を軽々と超えて、無限世界に肉迫する表現力が記号と数式にはある。新しい時代の数学を支えるためには、人間に生来備わった物理的・幾何学的直観に代わる、より堅固な数学の「基礎」を一から築き上げる必要が出てきたのである。

 ・・・一九世紀の数学者たちの手によって「解析学の厳密化」が推し進められた。その過程で「極限」や「連続性」など、定義が曖昧なままにされていたいくつかの概念に対して、できる限り直観に依存しないような、厳密な定式化が試みられるようになる。

 概念の精緻化は、数学を研究するための道具をますます鋭利なものにした。それまでの数学者が、いわば数学の世界を肉眼で見ていたとすれば、一九世紀の数学者たちは顕微鏡を使って、より細かく、より詳しく、それまで見逃していたディテールまで観察することができるようになった。

 ところがそこには、目を疑うような光景が広がっていた、たとえば「いかなる点においても接線を持たない連続関数」などという「病理的な」関数が発見されたときには、エルミートは「恐れおののき、まなこをそむけ」、ポアンカレは「直観はいかにしてわれわれをあざむくのか?」と自問し、戸惑いを隠すことができなかった。

 数学者が目を凝らし、数学をより克明に把握しようとすればするほど、そこには直観を裏切るような現象が現れたのだ。そうなると、数学者たちは自らの直観が大雑把で不完全であると自覚して、それが証明の手段として信用に足るものではないことを悟る。無限を扱う繊細な議論を厳密に遂行するためには、「極限」や「連続性」などの概念を見直すだけでなく、数学を根底で支える「数」の概念や、数学でなされる推論そのものについてまで、根本的な省察をする必要が出てきたのである。