豊田章男が愛したテストドライバー

豊田章男が愛したテストドライバー (小学館文庫)

 著者の他の本が面白かったので、この本にも興味を持って読みました。

 成瀬さんというテストドライバーを中心に語られるエピソード、印象に残るシーンがたくさんありました。

 

P136

 高橋はトヨタチームからレースに出場する際、少し年上のメカニックである成瀬を兄のように慕った一人だった。

 ・・・

 いつものように外が暗くなるまで作業し、ようやく夕食をとっていると、成瀬は同意を求めるようにこんなことを言った。

「なあ、晴邦君。ドライバーとメカは夫婦以上のものじゃないと駄目だよな。お互いのことを、それくらいによく分かり合ってさ。まあ、夫婦にもいろんな夫婦がおるけどな」

 高橋がいまもこうした会話を思い出すのは、レーシングドライバーという仕事のなかで、この言葉通りの出来事を成瀬との関係において何度か経験したからだった。

 ・・・

 ・・・ある日、東富士のテストコースを新型セリカでしばらく走り、エンジニアやメカニックが待つピットへ戻った彼は、

「前輪のグリップが弱い気がする。前のスポイラーの角度をニ、三ミリ上げてくれないか」

 と、エンジニアに伝えた。

 すると、チーフメカニックである成瀬は素早く作業に取り掛かり、クルマのフロント部分を少しいじってから「オッケーだぞー」と声を上げた。

 再びコースを周回したときのラップタイムは前回よりも早く、高橋は自身の感覚の正しさを確認した。

「ああ、良くなりましたよ。オッケーです」

 と、彼はピットに戻ってから成瀬に声をかけた。

 ところが、それから一年ほどが過ぎたとき、成瀬は含み笑いをしながらこう言うのだった。

「晴邦君、じつはあのときさ、俺は何もしとらんかったんだぞ」

 高橋は笑いながらこの話をすると、「要するに」と続けた。

「少なくとも僕は成瀬さんが『オッケーだぞ』と言えば、それだけでタイムが上がるくらい安心して走れたんだ。だから、夫婦の関係、っていうわけ。そういう信頼感がドライバーとメカのあいだには絶対に必要だということを、彼は盛んに僕に言ってたんだ」

 また、もう一つ高橋の記憶に印象的なものとして残っているのは、トヨタがレース活動から完全に撤退する前年の一九七三年のことだ。

 ・・・

 慎重に走行を続けてピットに戻った高橋はメカニックに違和感を伝えた。

 しかし、クルマを点検してもこれといった問題は見つからない。

「大丈夫だよ。何も問題はない」

 それでも高橋は食い下がり、

「もう一回、よく見てくれよ。左の後ろだよ」

 と、言った。

 彼らはタイヤを確認し、排気管の状況も確認した。

「大丈夫、排気も見たけど問題ないよ」

「でも、何かが変なんだ」

 そんなやり取りを続けているのを見兼ねたのだろう、ピットサイドで様子を窺っていた成瀬が仕切りの脇を通って近寄ってきた。

 そして、彼はマシンの後輪部分をしばらく覗き込むと、一本のドライバーを逆さまにして手に取り、その柄の部分で後輪のホイールを何度か叩いた。すると、なんとホイールを取り付けていた五本のナットのうちの一本が、ポロリと折れてしまうではないか。

 周囲はその様子を唖然として見つめていた。すぐにテストは中止され、原因の究明が開始された。

「設計者もメカニックも『おかしいな、折れるわけないのにな』と言っていたけれど、ナットは確かに折れたんだ。お陰様で僕は怪我をしないですんだってわけだ」

 ・・・

 高橋が私に言いたかったのは、こういうことだ。

 成瀬は前述のように日頃から高橋に対して、「ドライバーとメカニックの信頼関係」の大切さを繰り返し語っていた。自分が「成瀬さんがメカなら安心して走れる」とタイムを上げたように、成瀬もまた「晴邦が言うのだから、何かがあるんだ」と信じたからこそ、見過ごされるかもしれなかった不具合に気づくことができたのだ、と。

「成瀬さんというのは、そういうメカニックだったんだ」

 

P328

「いまでも新入社員は『いいクルマっていったいなんですか』と聞きますよ。でも、それは自分で考えることなんです。僕にだって明確な答えはありませんよ。正解はないんです。それが社会人というものだよね。成瀬さんだって『こうしたらいいクルマになる』なんてことは言わなかった。塩を入れたらこうなるぞ、うまいかまずいか、じゃあ胡椒を入れたらどうだ、うまいかまずいか。そういうことをずっと続けてきた相手だった。

 いいクルマをつくるのは人なんです。つまり、僕がしなければならないのは、人を作ることなんだ。そこに部署は関係ない。いいクルマづくりというのは開発や生産技術だけではなく、アフターサービスでも貢献できるし、営業でも販売でも広報でも、クルマとは関係ありませんと言える部署はどこにもない。どんな立場にいても、いいクルマをつくることにかかわることはできる。だって僕らがやっているのは自動車会社なんだから。

 成瀬さんに会って、その思いが強調され、言葉になっていきました。自動車の運転は、たかが運転ですが、奥が深い。ある程度まで上達すると自分の限界がまた現れる。その繰り返しなんです。僕の周りにはいつもトップクラスのドライバーがいて、僕の運転が一番ヘタクソだったから、常に謙虚でいられた。それは成瀬さんが作ってくれた環境だったんだといまでは思うんだ」

 

P285

 NUMMIは一九八三年、閉鎖したGMのカリフォルニア工場に「かんばん方式」を導入し、日米自動車摩擦の緩和を狙うとともに当時の会長・豊田英二が設立した会社だった。・・・

 豊田はこの合弁会社からの撤退を決める際、九十六歳だった豊田英二のもとを訪ねた。・・・「お前が社長だ。任せた」と言ったという。

 ・・・閉鎖を発表した後、工場の従業員が設備を磨き上げている様子を見て、涙ぐむ豊田の姿が目撃談として紹介されている。翌年四月に電気自動車メーカーのテスラ・モーターズからの打診があり、トヨタは同社と資本提携してこの工場でテスラの生産が引き続き行われることが決まるのだが、そこにはNUMMIの雇用を守りたいという豊田の思惑も背景にあった。

 こうした一連の決定を下すなかで、豊田は「最終的な決断でどれだけの人の顔を思い浮かべることができるか。それが経営者にとって重要な資質なんだ」という思いを強くしたと話す。

「工場をともにやってきた人たちがいる。そこにかかわる仕入れ先や関連会社がある。進むも地獄、引くも地獄。しかし、何もしないことは将来に痛みを押し付けるただの先延ばしに過ぎない。その痛みや悲しみを敢えていま背負いこんで、後に良かったと言ってもらえる仕事をすること。それが現役の役割なんだ」

 

P311

「もっといいクルマづくり」という現在のトヨタの基本姿勢となっている、素朴でシンプルなメッセージがある。それが豊田の口から繰り返し語られるとき、彼の胸にはいつも成瀬に教え込まれたクルマへの思いがある。

 巨大企業のなかである立場を得るためには、様々な障害を乗り越えていかなければならない。将来を嘱望された人間も、一つのミスや風向きひとつで、望むキャリアを得られないこともある。

 だが、成瀬は自動車会社の本分であるクルマづくりへの思いを変わらずに持ち続け、クルマへのその思いを語り続けることによって、豊田家をひきつけ、豊田章男を引き寄せ、LFAというスーパーカーの開発ドライバーの座を引き寄せた。

 成瀬の生涯を追いながら、一人の男のクルマに対する一途な思いが、その人のキャリアそのものをそのように切り拓いていったという事実に私は胸打たれ、ときにそれを希望だと感じた。