木村秋則さんと鍵山秀三郎さんの対談

目に見えないけれど、人生でいちばん大切なこと

 お二人とも、十年という単位で信念を貫いたというのが、すごいことだなぁと改めて驚きました。

 

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鍵山 私が会社を立ち上げましたのは、昭和三十六年、二十八歳の時でした。最初は自動車用品の卸売り販売からスタートしました。そもそも、その前にサラリーマンをしておりましたが、それが、同じ自動車関係の会社だったのです。

 しかし、その会社が問題だらけでした。お金儲けのためなら何をやってもいいというような利益優先主義でして、私は、それに納得できなかったのです。

 何度か社長にも直訴をしましたが、受け入れてもらえない、・・・

 会社に期待できないのなら、自分で理想の会社を作ればいいんだと夢を描いたのが、創業のきっかけです。

 当時の業界は右肩上がりでしてね。私のサラリーマン時代はべらぼうな給料をいただいておりました。結婚したら、家内が、自分の父親より給料が多いと、びっくりしたくらいです。

 しかも専務にまでなって、専用の車も与えられていたという高待遇。これを投げうってまで独立するというのですから、まわりには「あいつは、変人だ」と思った人もいたかもしれません。

 しかし、私はやはり、自分の夢や理想にかけたかった。

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 ・・・目標は、人格に優れたいい人間が、いい商品を売って社会に貢献するという〝絵に描いたような、理想的な株式会社〟を作ることでした。

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 ・・・当時の車関係の業界は、・・・人手不足の売り手市場でしたから、社員を募集すれば、やってくるのは態度も言葉づかいも良くない荒んだ者ばかり。

 ちょっといやなことがあれば、椅子を蹴ったり、口汚くののしるなど、およそ心が未成熟な社員が多かったんですよ。

 なんとかこの社員たちを穏やかな人間に成長させられないものか。農業で言えば、土を良くするようなものです。

 そこで、考えたあげく、私が出した答えが掃除だったのです。

 人の心は取り出して磨けるものではありません。心を磨くには、とりあえず目に見えるものをきれいにしてみてはどうか、と考えたのです。職場環境を美しく整えれば、彼らもきっと何かに気づいてくれるはずだと。

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木村 それで掃除をはじめたわけですね。

 

鍵山 そうなんです。最初は、私ひとりではじめましたが、四面楚歌でした。

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 反対ならまだいい。無視ですよ、無視(笑)。

 階段を拭いていれば、その手を飛び越えていく。トイレを掃除していれば、その横で平気で用を足す。そんな社員ばかりでした。

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 しかし、私は、信念を変えることはできませんでした。まず「土」、つまり人の心を変えなければ、会社は何をやっても絶対に成功しないんだと。

 その後も、苦難は続きました。卸売業に加えて直販店経営にも乗り出したのですが、店を作れば、今度はそこが暴走族のような粗野なドライバーのたまり場になってしまうありさまです。

 お店の中は雑然とし、床は汚れ放題。・・・

 こんなことではいけない。女性のお客さまでも気軽に立ち寄れるようなお店に変えていかなければ。ますます決意を強くしました。・・・

 私はひとり黙々と掃除をし続けました。

 とくに力を入れたのが、トイレ掃除です。ゴム手袋など使わず、素手で磨く。そうしますと、髪の毛一本の感覚も見逃すことがありませんから、ほんとうに隅から隅までピカピカになるんです。

 トイレは、人目につきにくい場所にあって、ないがしろにされがちです。それに、「掃除しろ」と言われて人がいやがる場所でもあります。しかし、そういう場所だからこそ、そこをきれいにすることが心の浄化作用につながるのだと考えています。

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木村 会社の中で掃除の大切さや鍵山さんの努力が理解されるようになったのは、いつ頃ですか。

 

鍵山 十年目くらいですよ。十年たってやっと、一人二人の社員が手伝ってくれるようになったんです。しかし、ちょっとやっては、すぐにやめてしまう。

 ほんとうの意味で、会社に「掃除をする社風」が定着したのは、二十年目になる頃だったでしょうか。その頃から、仕入れ先やお客さまからの評価もいただくようになりました。そして、それを過ぎた頃から、今度は仕事に直接関係ない方々が、トイレ研修に来社されるようになったのです。

 そして三十年過ぎて、全国に「掃除に学ぶ会」ができました。四十年過ぎて、今度は治安対策の一環として地域社会のお掃除をするようになりました。

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 今は経営からは引退しておりますが、掃除からは引退しておりません(笑)。相変わらず、腕まくりで、全国を飛び回ってはトイレ掃除をしております。