見ようとすると見えない

アップデートする仏教

 この辺りも印象に残りました。

 

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良道 英語だと〝Watch your breath.〟という言い方をしますね。これも非常に問題ある言い方で、後でこういう瞑想インストラクションがどうしても呼び起こす誤解について話し合うことになると思うけれど。まあともかく、そうして一時間ほど呼吸をずーっと継続的に見られるようになると、これも本当はあまり言いたくないんだけれども、光が現れてくるんですよ。

一照 それっていわゆるニミッタ(nimitta)というやつ?

良道 はい、禅相と訳されますが、禅定に近づいている「しるし」、証拠という意味ですね。・・・

 ・・・

一照 良道さんもパオ・メソッドのコースを完了したそうだから、ニミッタを経験しているわけよね。

良道 まあ、そうです。でも、日本ではニミッタのことについては教えていません。

一照 あっそうなんだ。だけど、呼吸を観察することは、良道さんのメソッドの中では大事にしてるんでしょ?それなのになぜニミッタのことは話さないの?本当に呼吸を観察していたら必ず見えるというんだったら……。

良道 はっきり言うと、わたしのところで瞑想している人の中には見えてる人もかなりいると思います。光はたぶん見えてると思うけど、わたしは「光を見なさい」なんて絶対言いません。

一照 それはなぜ?

良道 見なさいと言うと、見ようとしちゃうからですよ(笑)。ニミッタを見ようとしたら見えなくなってしまうからです。

一照 良道さんの先生のパオ・セヤドーはストレートに「見なさい」と言うんでしょ?すると良道さんのやり方は先生と違ってくるよね。

良道 パオ・セヤドーをはじめとするビルマの人たちは非常に素直だから、「見なさい」と言っても問題が起きないんですよ。でも、西洋人やわれわれ日本人のような人たちは「見なさい」と言われると、「よし、俺は何が何でも見てやるぞ」という余計な構えを取ってしまう傾向があります。だから、日本人とか西洋人がみんなそのあたりで躓いてしまいます。その違いは何かといったら、ビルマの人たちはヨーガで言うところのバクティ(bhakti 献身)がものすごく深いんですよ。かれらは一日中、仏像やパゴダに向かって礼拝をしている。僧侶に対しても日常的にお布施をする。だから瞑想する前にもう十分「我を捨てる」というところが本当にできているのね。そこが大きな違いなんですよ。バクティができている人たちだから、「呼吸を見なさい」と言われても、「よし、見てやるぞ」とはならないのです。・・・

 ・・・

 ・・・バクティのようなものがどうしても、瞑想の前提とされます。テクニック云々以前に態度そのものが大事なんですよ。

一照 そういう態度でいれば、こちらから頑張って見ようとしなくても、ニミッタがすっと向こうから現れてくるということか。なるほどね。向こうから現れてくれるんであって、こっちから見るんじゃないんだね。見えてくるんだから、わざわざ見ようとしちゃいけない。

良道 そう、見えてくるから、見ようとしたら見えるわけないんです。

一照 その辺はやっぱり僕が坐禅についてよく言うことと面白いくらい共通してるよね。そこいら辺のことを道元禅師は強為と云為という言い方で言ってる。強為というのは俺が無理して、強制的に何かをやろうとするような行為。云為というのは頭を通さない、もっと自発的で思慮分別をはさまない行為のことなんだけど、「俺が頑張ってやってやるぞ」という強為的な態度でいる限り、絶対に到達できない世界っていうのがそこにはあるんだね。

 その辺のことを言うときに僕は「マジック・アイ」の例を使うんだけどね。あの二次元パターンの図柄を普通の眼のままで「隠されている三次元の図形を見てやるぞ」と言って眼を緊張させたら三次元の図は絶対に見れないんだよ。

良道 だけど、眼を緊張させないでリラックスさせて待っているとそのうち向こうから見えてくるでしょう。

一照 そうそう。・・・きっとニミッタもそんな感じなのかな?・・・

 ・・・

 ・・・「自分で頑張らないほうが坐禅になるんだよ」なんて言うと、「そんなこと本当なのか?」みたいな顔をするからね。僕はそこが宗教の醍醐味なんだよって言うんだけどね。別な言い方だと、他力的な世界ですよ。だけど、他力といっても、俺はさぼってるからみんなお任せしまーす、横になってますから後はよろしくーではダメなんですよ。それはほんとの他力なんかじゃない。「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のかたになげいれて」ということは自分の側でちゃんとやらなきゃいけないし、「これにしたがひもてゆき」ということもちゃんと条件になってるよね。そこのところがうまく伝えられないと、仏教の醍醐味はわからないですよ。・・・

 

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良道 われわれはシンキング・マインドが自分だとずっと思い込んでいた。実は、われわれの親もそう思い込んでいた。われわれの小学校の先生も、大学の教授も職場の上司もみんなそう思い込んでいたから、だから当然われわれとしては、それが自分だと思わざるを得ないわけですよ。だけれども、それが自分だと思ってる限り、あまりにも辛いことが多すぎて、で、辛いから瞑想して幸せになろうと思ったんだけど、瞑想もシンキング・マインド主体でやっちゃうから失敗続きでここでも行き詰まる、というのがどうしようもない現状だと思うんですけどね。

一照 僕らがずっと話してきている見聞覚知の主体は、要するにエゴとか我とかと言われているものなんだね?普段われわれが「俺、俺」と言っているやつ。

良道 そうです。

一照 じゃあ、それとは別の主体はどういう名前で呼ばれているの?

良道 これはいくらでもあるじゃないですか、仏教の中では。でも正直言うとそういう仏教用語では言いたくないので、わたしはいま「青空」という言い方をしてます。仏教用語を使うと、何となくわかったような気にさせられてしまうからです。そうするとまたシンキング・マインドの罠に落ちてしまう。

一照 青空か。すると見聞覚知の主体はそこに浮かんでいる雲ということになるね。

良道 そう、シンキング・マインドは雲に当たります。それを浮かばせている青空が瞑想の主体だというのがわたしの言いたいことなんです。

一照 青空ね。あえて聞くんだけど、伝統的に仏教で、仏性と言ったり、本来の自己と言ったり、非思量、無分別智とかと言われているものだと理解してもいいの?

良道 そうですね。非思量というのは、シンキング・マインドの話ではないよということ。言語道断だよということじゃないですか。