流転

迷える者の禅修行―ドイツ人住職が見た日本仏教 (新潮新書)

 大阪城公園坐禅をしながら、流転というお便りを作って、托鉢のときに配ったそうです。そのお便りの一号と二号はこんな内容でした。

 

P181

 坐禅をして、何になるか?その答えは、『坐禅をしても何にもならない』ということです。私は絶えず、何かを求めて生きてきました。それは金だったり、恋人だったり、学校や社会での成功だったり……。最終的には、そのときの私に欠けていた「しあわせ」を追いつづけていたのです。一生懸命に「しあわせ」になろうとしている私は、今ここ、この自分の本当の有りようを見失って、自分をいつも留守にしていたのです。「しあわせ」になろうとしているうちに、「しあわせ」とはいったい何なのかということも、今この私はすでに「しあわせ」のど真ん中にいるのだという真実も分からなくなってしまいました。今いったん、求めることを止めにします。何かになろうと思わず、自分を坐禅の中に投げ込んで坐禅をします。そうして、初めて坐禅坐禅をします。私ではなく、坐禅坐禅をします。と同時に、私が初めて本当に私になり、「自分」をします。

 

P187

 公園でのホームレス暮らしも一ヶ月が過ぎた頃、「流転 第二号」を発行しました。

 

 先日の托鉢のとき「本物をつかんで下さい」といわれました。堕落した日本仏教に染まらず、釈尊の本当の教えを追究しなさい、という意味だろうか。あるいは、街頭で托鉢している乞食坊主の多くが偽者に見えたのだろうか。とにかく、励ましとしてありがたく受け止めました。ところが、本物って一体なんなのでしょうか。どうやってそれをつかめばいいのか。道元禅師はその答を「はなてば手にみてり」という言葉で表します。つかもうと思っても、つかめるようなものではありません。握れば、かえって逃げてしまいます。手放してみて、初めてそれに気づくことが出来る。仏教の本当の教え、本物の仏法は我々から離れたところにあるのではありません。本当の仏法は現実そのものです。そこには「にせもの」も「ほんもの」もありません。この現実を本気になって見つめ、今ここ、本音を生きれば初めて本物の自分になれます。