アップデートする仏教

アップデートする仏教

 ちょっと変わった立場のお坊さんお二人の対談を読みました。

 説明がわかりやすくて、いろいろ興味深かったです。

 

P134

良道 ワンダルマ仏教という立場からいうと、実はそんなヴィッパサナー瞑想の最後の段階まで行かなくても、呼吸を見るというイロハのイの瞑想ですら、青空から呼吸を見ると言ったほうが遥かに本質を突いているんですよ。つまり、初歩からもう青空の立場で瞑想するべきだということなんです。

 なぜ今まで多くの人が呼吸が見ることができなかったかと言うと、やっぱりみんな雲である自分で見ようとしていたからです。つまり、シンキング・マインドで見ようとしていた。仏教では人間の心というのは猿だとか、暴れ馬だとか、あるいは子牛だとか、いろんな喩えを使って説明します。・・・

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良道 お釈迦さまは自分は心をコントロールできる。そしてお前たちも自分の心をコントロールしなきゃダメだよと言われてる。コントロールというのは調えるという意味です。だけど、そのコントロールの意味というのが、わたしたちが普通に考えるような意味ではないんですよ。どういうことかというと、まず最初にお猿が自分だという根本的な混同があります。この混同からお猿さんはエネルギーをもらって飛び回る。それを押さえようとすることで、ますますお猿を元気にしてしまう。しかしもし、自分はお猿ではないということにはっきり気づいたとき、この混同がなくなる。そうするとお猿へのエネルギー供給もなくなって、実はもともと幻想だったお猿も消えていく。そして、もうお猿と一緒に飛び回っていない自分を発見するとき、もう自己は調えられている。そもそもお猿さんがいないんだから、完璧にコントロールされている。そこまで見なかったら心をコントロールするということの本当の意味は理解できないですよ。

一照 ブッダは「心を調えなさい」ということを教えているんだけど、その調えるは「俺が猿みたいに飛び回る俺自身の心を必死にコントロールする」、そういう意味で言われてるんじゃないということだね。そこは瞑想の実践者にとってとても大事なことですね。「心を調える」という意味をどう理解するかで実践の中身がまるっきり違ってくるから。

 

P146

良道 思いが手放された世界に入る前に、心がどう働いていたかというと、もちろんエゴとして働いていたんですよ。だから、われわれの中にエゴとしてずっと生きてきた強烈な勢い、慣性力というものがあります。

一照 なるほど、それはティク・ナット・ハンさんがしばしば使うハビット・エナジー(habit energy)というやつだね。唯識で言うところの薫習とか習気ですね。長年の間にしみついた身心の癖。

良道 そう、ハン師は、知らない間に身にしみ込んだ癖とかパターン化された心や体の反応の仕方みたいなものをハビット・エナジーと呼んでますね。・・・このハビット・エナジーの核にあるのがエゴです。エゴの世界とエゴが手放された慈悲の世界との違いをはっきりわからなきゃいけない。ハビット・エナジーを乗り越えるために。

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 ・・・だから、このエゴのハビット・エナジーを断ち切るために、慈悲というものを養わなきゃいけない。そのためには、慈悲の正反対であるエゴの本質を知らなきゃいけない。エゴの本質とは何なのか?エゴというのはもともと頼りないものなんですよ。エゴというのは、本当は自分は存在してないっていうことをうすうす知ってるものなんですよ。

 だから、自分は本当は存在してないんだと知ってるものは、自分が幻であるということを見透かされるのがいちばん怖いわけ。それでなんとかして実在感を持とうとして何をするかというと、強烈なネガティブ・エナジーを得ようとするわけ。ネガティブなエネルギーは確かな手応えがあり、実在感を得られるから。だからエゴはうわべは幸福になりたいというポーズを取ってるけど、本当は自分をみじめな状態にとどめておきたいんですよ。ネガティブなエネルギーに充ちた状態ですね。だから幸福なエゴというのは、この世に存在しません。

 そういうエゴの本質を知って初めて、エゴを手放すことができる。ではどうやって手放すのか?エゴの反対のものを養うことです。それは何か?それこそが「慈悲」というものですね。慈悲はエゴが欲しがっているものの真反対なんです。そういう慈悲を願うことによってエゴが存在できなくなるわけです。