固定した実体がない

坐禅は心の安楽死 ぼくの坐禅修行記 (平凡社ライブラリー)

 印象に残ったところです。

 

P218

横尾 きょうは、業とか因果とか因縁といったものにテーマを絞って、大森曹玄老師にお話をうかがいたいと思ってやってまいりました。

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大森 仏教は因果必然論じゃないんです。因縁です。必然論ならば、何もしないでいれば、その通りになってゆくことになるわけです。そこのところが非常に誤解されているのではないでしょうか。縁が大切なんですね。縁というのは、つまり条件ですね。因―縁―果となるんでしょうね。そして縁というのは自分で選択するものなのです。

 お釈迦様が因縁というものを説いたということは、すなわち創造主を否定されたということなんです。バイブルにあるような造り主ですか、ああいうものを否定したわけです。そうではない、すべてのものは原因と条件によって成立するんだということを説かれたのです。

 原因と条件によって成立するものには固定した実体がない。だから、空だ。という理論なんですね。それを、原因から結果に短絡させて因果論というから、〝親の因果が子に報い〟という考え方になってしまう。

 原因に対して、その条件を選んでゆくということが、われわれが生きるということの意味じゃないでしょうか。

 

P232

 坐禅は時間と雑念の闘いだったといったが、もうひとつ坐禅は観念との闘いでもあった。自分自身が作りあげた観念がぼくをがんじがらめに縛り上げていた。観念が邪魔して、どうしても越えられない一線があった。井上善衍老師に出会った時の戸惑いと驚きがそうである。小学生でも通じる老師の言葉が、ぼくには通じなかったのである。つまり「頭」で考えようとするから、まるでなぞなぞを掛けられているようだった。確かにわれわれは物事を観念で判断し、事実を複雑に曲げてしまっている。日本の文化そのものが観念的である。また観念的でなければ安心できないのだ。ぼくも何冊かの禅入門の本を読んでみた。一冊読めば観念的に「わかる」のだ。それが禅だと思っている人も多い。ところが坐禅してみると、このような観念など何の役にも立たない。観念では悟れないということだ。

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 だが現代人は誰でも似たりよったりで観念的である。只管打坐といわれて「ハイそうですか」といって坐る者はない。「なぜ?」という疑問を発するのだ。このようにして理由を求めるところから坐禅に入るからたちが悪いのである。・・・

 理屈を拒否する坐禅はそういう意味では現代人の意表をつく。最初のうちはまるで異次元の体験をしているようだった。それほど驚きと、ある種の新鮮さはある。坐禅生活すべてが非日常的で珍しいのだ。時間の観念が異なるといったが、昔はすべてこんな生活をしていたのだろう。インドの時間の観念は確かに日本のそれとは異なる。参禅生活の時間とどこか似かよっているところがある。一日がとてつもなく長いのだ。時間そのものが瞑想的である。

 参禅生活は結構忙しい。朝の四時から夜九時まで。この間坐禅、朝課、食事、作務、風呂と、全く休む間もない。これほど忙しいのにもかかわらずなぜ一日が長いのだろう。現代人の一日は短い。心が動かされっぱなしである。心が思い煩っているのであろう。それらの心の動きはすべて欲望とつながっている。欲望が時間を短縮しているのだ。もし人間がいちいち心を動かすようなことがなければ一日は長いはずだ。

 参禅生活の一日が長いのは、この間われわれは無欲になれるからだ。完全な無欲とまでいかないまでも、半ば諦めから無欲に近い状態である。日常生活では利害関係がからんでおり、なかなか無欲にはなれない。