本の最後にこのように書かれていて、印象に残りました。
P326
最後に三十数年にわたり、世界各地で二十五以上の言語を学んで実際に使ってきた感想を一言述べたい。よく質問されることでありながら、これまできちんと答えてこなかったからだ。
面白いことに、初期の段階では、「言語とはどうしてこんなにちがうんだろう」と思った。例えば、タイ語とフランス語と日本語では同じ人間が話す言葉として差異がありすぎる。タイ語の動詞は何も変化しない。「行く」は昨日でも明日でも、また「行きなさい」でも「行くこと」も「パイ」である。その代わり、五つもの声調があり、タイ人は日がな一日、小鳥のようにさえずっている(ように初学者には思える)。フランス語は主語の人称によっていちいち動詞の形が変わる。明日か昨日かによっても動詞が活用する。どうしてそんなに変わんなきゃいけないんだよ⁉とキレそうになるほどだ。日本語は中国語と日本語の単語(文字も)を混ぜるというありえない芸当を編み出しており、外国出身の学習者を絶望させている。
ところが、習った言語の数が増えていくと印象が変わってきた。むしろ、「人間の言語はどれもなんて似ているんだろう」と思うようになった。多くの言語に共通する例をパッと思いつく順に挙げると、
・「~してください」という言い方より「~してくれますか」という言い方の方が丁寧。
・「あなた」という二人称を直接用いるのは失礼に感じるので、名前で呼んだり、「おにいさん」「おねえさん」みたいな呼び方をしたり、いろいろな婉曲な方法を編み出している。
・名詞を分類する傾向がある。中国語や日本語、タイ語のように「~本」「~枚」「~個」と助数詞(類別詞)を使ったり、フランス語やスペイン語のように男性・女性に分けたり、バントゥ諸語のように十いくつかの種類(クラス)に分けたりする。
・音の似た単語があると、アクセントや音の高低で区別する。
・「行く」とか「する」といった使用頻度の高い動詞は不規則変化しやすい……etc。
逆に言えば、他の言語と極端に異なった言語もない。発音で言えば、音楽の和音みたいに二つの音を同時に発する単語をもつ言語とか、イルカのように超音波を発してコミュニケーションをとる言語など聞いたことがない。人間の身体構造を超えた発音はできないのだろう。
異常に風変わりな文法の言語も見当たらない。・・・
各言語で発達したシステムの完成度にも感心する。
前にも言ったように、一つ一つの言語は一見、驚くほど異なる。タイ語やワ語には動詞に時制がない。過去形も未来形もない。でも、過去や未来を言い表せないかというとそんなことはなく、英語のようにひじょうに多くの時制を駆使する言語と同じことが言えてしまう。
英語の名詞には定冠詞the、不定冠詞a/anが付き、さらに単数・複数がある。日本語の名詞には何もない。では日本語のほうが不自由かというとそんなことはなく、他の文法機能や文脈でちゃんと表現することができる。例えば、「このへんに店とかないかな」と言えば、不特定の店のことだし、「ちょっと店に来て」と言えば、特定の店だろう。
およそ、どの言語でも、言い表せないことはないのだ。ボミタバ語でもワ語でも、どんなテーマについても話すことができる。ボミタバ語で相対性理論について議論することも原理上可能だ。もしできない話があるとすれば、概念自体がないときである。概念がなければ、単語や表現もない。例えば、明治初期、日本語には西洋文明とそれが生み出すモノの概念がなく、従って言葉もなかった。だから「会社」とか「権利」といった用語を作ったり、ビールとかシャツという外来語を導入したりした。すると普通に話ができるようになった。
美しい言語や美しくない言語もない。フランス語が世界でいちばん美しいとか、中国語は音が汚いとか言う人がいるが、偏見にすぎない。
どの言語もみんな美しい。ここ十数年、私はいつも個人レッスンでネイティブの先生に例文を習い、それを録音し、あとで反復練習をするようにしているが、どの言語であっても、先生が例文を読み上げるのを録音するとき、その美しさについ聞き惚れてしまう。先生役の人たちはみんな素人教師であり、アナウンサーでもなければ読誦のトレーニングを積んだ人でもない。別に声がいいとかでもない。例文の内容とも無関係。誰がどういうふうに読んでも、ネイティブが話す言葉はみんな美しいのである。
・・・
どの言語でも原理的に言い表せないことがらはない。どの言語も似たような性質を共有している。そしてどの言語も美しい。
だから私は、つくづく思うのである。「人間はみな同じなんだな」と。
人間は平等であるべきだとか、人権の観点から言うのではない。語学を通してみると、そういう結論しか得られないのである。