他者理解と言語ゲーム

世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング)

 言語ゲームという考え方、初めて知りました。

 

P97

 その男性の母親は認知症を患い、毎日16時になると外に出て行ってしまうという。

 いわゆる「徘徊」だ。

 男性は、必死になってその外出を止めようとすると、母親はわめき、暴力をふるう日々が続いた。

「母さん、どうして毎日16時に外出しようとするの?」

 尋ねてもはっきりとした返事はない。

 どうすることもできなくなり、彼はベテランの介護職員に相談した。

 すると介護職員は何を思ったか、母親の兄に連絡を取った。そして「16時」というキーワードで何かヒントは無いかと尋ねる。すると伯父は、「16時」とは幼かったころの息子が幼稚園からバスで帰ってくる時間ではないかと言う。

 その話を聞いた介護職員は、母親にこう告げた。「今日は息子さん、幼稚園のお泊まり会で、帰ってきませんよ。バスも今日は来ませんよ」。・・・

 するとどうだろう、母親は、「そうだったかね?」と言って部屋へ戻っていった。

 ・・・

 母親は「徘徊」という行為ではなく、「息子を迎えに行く」という物語の中を生きていたのでした。

 ・・・

 もしその男性が「16時」という不合理の合理性に気づかず、母親の振る舞いが非合理なもの、意味のないものだと見なしたままだったとしても、母親の「息子を迎えに行く」という贈与の行為はこの世界に存在したでしょうか。

 母親という差出人とその贈与は、受取人である男性がそれに気づく前の時点では存在しなかった。

「実はこの私を迎えに行っていたのか」と気づいた時点において、母の行為が数十年の時間を飛び越えて、今ここに贈与として立ち現れたわけです。

 では、この贈与を受け取ったのはいつなのでしょうか?

 もちろん、贈与に気づいたのは今現在です。

 僕は、男性はこの贈与をずっと受け取り続けていたのではないかと思います。

 贈与はすでにここに届いていた。

 ただ、それを見落とし、気づかず、数十年の時間が経っていた。

 しかし、だからこそ、その贈与は呪いになることなく、男性のもとに届いたのです。

 この「16時の徘徊」のエピソードには、本書が目指す贈与論のモデルの一つが隠されています。

 他者の不合理な振る舞いの中に、差出人としての姿が隠されている。

 僕らは不合理性を通して、他者からの贈与に気づくことができる―。

 贈与にはある種の「過剰さ」「冗長さ」が含まれています。なぜかというと、ある行為から合理性を差し引いたときそこに残るものに対して、僕らは「これはわたし宛の贈与なのではないか」と感じるからです。

 ・・・

 

P121

 僕らは子供のころ、言葉をまったく理解しない状態から、どこかの段階で「言葉によって言葉を理解する」という状態に移行したのです。だとすれば、言葉によって言葉を理解する以前の、いわば言葉の直接的な理解というものは何だったのでしょうか。

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 たとえば、「窓」という語の意味を僕らはどうやって理解したのでしょうか。

 言語について徹底的に考え抜いた、20世紀を代表する哲学者のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは次のように言います。

 

 言語を教えるということは、それを説明することではなくて、訓練するということなのである。 (『哲学探究』、第5節)

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 言語を習得しようとしている幼児は、「透明」「四角いもの」など・・・「窓」以外の言葉もまだ知りません。・・・他のあらゆる概念が準備されていない状況で、「窓」の意味を教えなければなりません。それはちょうど、野球をまったく知らない人に、ある場面だけを見せて「これがファールだよ」と教えるようなものです。彼はきっと困ってこう尋ねるはずです―「え、〝これ〟ってどれのこと?」

 ・・・

 では、どのようにしてかというと、それは親や周囲の大人から「寒くなってきたから窓を閉めようね」「ほら、窓見てごらん、お月さま出てるね」といった・・・活動と言語的コミュニケーションが合わさったやり取りを通して、徐々に学習してきたのです。

 つまり、「窓」という語がどのような生活上の活動や行為と結びついて使われているかという点に、「窓」の意味があるということになります。

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 このように、実践を通してゲームが成立するがゆえに、事後的にルールというものがあたかもそこにあるかのように見える、というのがウィトゲンシュタインの主張のポイントです。ウィトゲンシュタインは、そのようなゲームを「言語ゲーム」と名づけました。

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 「窓」という語を理解したということは、窓という一般概念を、心の中、頭の中で掴んだということだと僕らは思っています。・・・

 ですが、言葉の意味がその使用そのものならば、意味が心に浮かぶ必要はありません。というよりも、心に浮かぶイメージや、一般概念というものは、意味理解において何ら本質的な役割を果たさないのです。・・・そうではなく、野球であればちゃんとプレーができること、言語であれば言葉を使って他者とコミュニケーションが取れていることそれ自体が、理解していることの規準なのです。

 

 要約すればこうなります―。意味は心の中にあるのではない。意味は言語ゲームの中にある。

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 しかし、この言語ゲームという視点からすれば、むしろ僕らはこの言語ゲームの中に閉じ込められているとも言えないでしょうか?

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 ・・・「16時の徘徊」のエピソードを思い出してください。

 その男性は、僕らが採用している言語ゲームの側から、母親の振る舞いを認知症による「徘徊」だと捉えていました。ところが、そこにはまったく別の言語ゲームが存在していたのです。そしてそれは、思いもよらないまったく別の言語ゲームだったからこそ、男性は母親とのコミュニケーションがうまく取れなかったのです。

 母親は、子育てという言語ゲームの中にたった一人でいたのでした。・・・

 だから、母親自身にとってそれは「徘徊」ではなく、子育ての言語ゲームの一コマとしての「幼い息子を迎えに行く」という行為だったのです。・・・

 このように、他者のことを理解できないのは、その心の内側が分からないからではありません。

 その他者が営んでいる言語ゲームに一緒に参加できていないから理解できないと感じるのです。

 ・・・

 だから他者理解において僕らがやるべきは、もっと長い期間、一緒にゲームに参加しながらゲーム全体を観察して「ファール」の意味を少しずつ学んでいくように、その他者がこれまでの人生の中で営んできた言語ゲームを少しずつ教えてもらいながら、一緒に言語ゲームを作っていくことかもしれません。ちょうど、僕らが幼いころ、「窓」という言葉を、言語ゲームに交ぜてもらいながら学んでいったように―。

 他者と共に生きるとは、言語ゲームを一緒に作っていくことなのです。