からだ

身体の聲 武術から知る古の記憶

 実感としてわからないながら、興味深かったところです。

 

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 だいたいの意味が分かってしまうことで本質が見えなくなってしまった。ひいてはよく分からないまま「精神」「身体」と平気で言ってしまう事態を生んでしまったわけです。

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 それまでは「からだ」に対し、體や軆、軀、骵、躰という語を当てており、一つ一つの〝からだ〟は異なる経験を意味し、それらの変化を経て現代の日本で用いる「体」という表記にまとめられるところに辿り着きました。

 大陸においても象形文字の「體」から「体」へすぐに変わったわけではありません。

 ある時代を生きた人がそれぞれ「からだ」をどう捉えていたか、そこにどのような経験があり、どう感じて、どう観ていたか?という移ろいの物語があります。

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 明治以降、現代人の多くは「身(シン、み)」と「体(タイ、からだ)」を特に分けずに「身体(シンタイ、からだ)」として捉えており、「身(み)」と「体(からだ)」の見分けがつかなくなりました。

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 昔の人々の感性からすると體とは「もともと豊かで」、あえてどうこうコントロールしなくてもいい対象でした。その豊かさをただ見つめ、感じていればよかったのが體であり、自分の存在だったのです。

 現代人の多くはおそらく身体が豊かとは感じられず、どちらかというと煩わしく常に操作やコントロールしないといけない対象のように感じているのではないでしょうか。

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 自分という存在は意識や自我、精神であって、調えられた環境の中でなら身体に関わらないままでも今は十分に生きていける。なんの問題もない。そう感じている節があります。

 私たちは自信を持って、自分の身体に自然に従い人生を生きて、そのまま立派に自然に死んでいくことがなかなかできなくなっている時代にいます。

 身体が「體」に戻るための手がかりは、和語の「からだ」にあります。

 自分に目を向けた時の「からだ」とは「からだま(殻魂)」ともいわれ、「殻だ、空である」という感覚経験からできた言葉です。

 つまり、空っぽで何もない経験こそが「骵(からだ)」だったのです。

 一方、身は実(み)と似た感覚経験で「ある」「つまっている」「みちている、みつる」感覚経験を意味します。

「カラ」は「なさ」や「空っぽさ」の経験を意味し、身(み)と体(からだ)はもともと別の意味を持っており、それぞれすみ分けて経験を理解していました。

 これも一例に過ぎませんが、明治期に外国語をもとに身(み)と体(からだ)をくっつけた言葉を作ることで西洋文明の価値観を示す言語の取り込みはうまくいったものの、観ていた「からだ」が「身体」にすり替わったことに対し無自覚であったがゆえに、自分の中の何が「身」で何が「体」なのか分からなくなってしまいました。

 挙げ句の果てに、自分の身体との対話を放棄しつつもコントロールしたい欲求に駆られるような、矛盾した生き方を普通にしてしまうようになったのです。

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 このような時代に武術を学ぶ意味があるとしたら、私達が普段「体」と思っているものは、概念上のやりとりの中で共同幻想のイメージで作られた「身体」であり、そこから目を覚まし、その共同幻想、さらには共同幻覚に気づいて、自分の「身」と「体」を多少は見分けられるようになることだと思います。

 気をつけたいのは、現代人の身体観が悪い、昔は良かったといった単純な話ではないことです。

 イメージ上の現代人の身体も、武術の稽古が見せてくれる古の体と身も、どちらも異なる現実の一部としてあります。

 ただし、ここは見分けがつくようすみ分けておかないといけません。

 つまり「一人の人間だから体は一つ」というのは、あまりに簡略化されすぎた物理的な観念で人の存在を捉えすぎています。

 それこそが概念上のバーチャル化された共同幻想としての身体です。

 先人たちは、「体」を表現するのに躰や體といった様々な語を用いました。古人は体は一つではなく、多様だと知っていたのです。

 体にはいくつも層があり多様性があって、それぞれが観えたり観えなかったりします。体はいくつもあると考えたほうがいい。

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 必ず言語には文化と身体観が干渉しています。

 それが言語の源にある文化的特徴であり、その文化特有の身体観となります。

 それも体には様々な層があるからこそ、起こり得ることです。