「友だち」という単語がない

語学の天才まで1億光年(集英社インターナショナル)

 この本からもう少し・・・この辺りも、へぇ~でした。

 

P305

 私は、足かけ五カ月ほどムイレ村に滞在した。

 村の生活は困難なことが多かった。まず寒かった。標高千メートル以上ある山岳地帯の冬は冷え込み、家は隙間だらけなので、屋外と全く変わらなかった。昼間よほど疲れていないと、夜は寒くて眠れなかった。

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 腰痛にも悩まされた。アヘンを作ると聞くと、ものすごくダークな仕事を想像してしまうが、実は純粋な農業だった。しかも、農薬、肥料を一切与えない完全自然農法である。これ以上エコな仕事はない。やるのは、ひたすら雑草を取ることだけ。

 毎日朝から晩まで草むしりをしていたら、深刻な座骨神経痛になってしまった。私がいつも「いててて」とうめいているので、村の若い子たちが私を見ると、「アイ・ラオ、いてててて」と真似をするようになった。

 食べ物も辛かった。ワの村人は「モイック」という、菜っ葉かニラを入れた雑炊を一日三食食べる。味つけは塩と唐辛子のみ。他の野菜はほとんど作らないし食べない。肉は冠婚葬祭のときのみで、しかも割り当ては一人当たり、二切れがせいぜいである。でも彼らはその食生活が気に入っているらしく、世界でも稀に見るほど保守的で粗食好きな民族と言える。私が村にいるときの悲願は、「モイックでない飯を食いたい」ということだった。

 そのような愚痴をこぼしながらも、外界と隔絶した自給自足にして準原始共産制の村に暮らすことは得がたい経験だった。言語だけをとってみても多くの驚きや発見があり、おかげで言語全般に対する私の認識もひじょうに深まった。

 村のワ語には、他の言語に当然存在するような言葉がいくつも欠けていた。例えば、「こんにちは」も「ありがとう」も「ごめんなさい」もなかった。

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 では、家の外で誰かと出会ったとき、どう言うのか。普通はだいたい、名前を呼ぶ。私を見かけると、村の人は「アイ・ラオ!」と呼ぶ。私も「アイ・スン」とか「サム・レット」と相手の名前を呼ぶ。村の人口は三百人ほど。大人は半分ぐらいだから、どこの誰かみんなよく知っている。

 名前を呼ばないときは(あるいは名前を呼んだあとにも)、「どこ行くの?」「何してるの?」「(ここに)来たのか」「帰ってきたのか」など、そのときの相手の状態にふさわしいことを訊く。また、「ご飯食べた?」というタイ語や中国語などにも共通した言い方もある。

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 ・・・「ごめんなさい」に当たる言葉は標準ワ語では習わず、村でも一度も聞いたことがない。たぶん、ないのだろう。身に覚えのあることで非難された人はただ黙ってうつむくだけであり、もし何か謝意を表明するなら、言葉でなく行為で示す。高菜漬けやそば粉という、モイック以外の稀な食べ物をお裾分けしたり、タバコや焼酎をあげたりする。そのときも「この前は悪かった」なんて言わないし、そんな顔もしない。何事もなかったかのように、明るく親しげに振る舞う。それがワ人の礼儀なのである。

 挨拶語がないというのは奇妙に感じられるが、思い返せば、私がこれまで習ってきた多くの言語に多かれ少なかれそういう側面があった。

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 タイ語の「サワッディーカー(女性)/サワッディーカップ(男性)(こんにちは)」は一九三一年にラジオ放送が始まったときに作られた言葉だというし、ビルマ語の「ミンガラバー(こんにちは)」に至っては、九〇年代では学校で先生と生徒の間で使われるか、外国人とネイティヴが挨拶するときくらいにしか使われていなかった。シャン語でも「モイスンカー」という挨拶語が存在するが、一九六〇年代以降、タイ語ビルマ語にならって作られたものらしく、九〇年代では知らない人の方が多かった。

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 もっと後に経験した話であるが、アフリカのソマリ人はソマリ語に「ありがとう」や「ごめんなさい」を意味する言葉があるのに、めったに使っていなかった(今でも多くの人は使わない)。両方とも使っているのは私だけという馴染みの状況であった。

 というように、主に顔見知りで構成される前近代的な色合いの濃い社会では、定型の挨拶語や儀礼語は不要なのである。

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 外界から孤立した前近代社会の村には、他にもいろいろ「村言葉には存在しない語彙や表現」があった。「友だち」という単語がないことにも最初驚いた(標準ワ語にはあるのかもしれない)。

 でも、よく考えれば無理もない。物心ついたときからみんなが顔見知りの状態で、「友だち」なんて言葉を使うだろうか。友だちという言葉を使う必要があるのは、例えば、私のようなよそ者に対してだけだ。親戚でもなく、同じ村の人間でもないが、「おまえはいいやつだ。俺の友だちだ」とか「おまえ、友だちだろう。酒をおごってくれ」などと言いたいときは彼らにもあり、そういうときは「朋友」と中国語を借りてくるのだった。私の村滞在中に、「ポンヨウ」という新しい言葉が村にかなり広まったはずだ。

「友だち」はたぶん、多くの前近代社会になかった単語ではないかと思う。今でもインド周辺から中近東アフリカに至る広い地域で、語族や語派の枠を超えて、「ドースト」や「サーヒーブ」という言葉が「友だち」の意味で用いられている。これはもともと「友だち」をもたない言語が外界との接触を増やす過程で、ヒンディー語アラビア語といった有力言語の「友だち」を取り入れていったのではないかと想像する。「政府」や「科学」といった言葉と同様に「文明用語」の一種なのだ。

 ワ語には「病気」を表す言葉もなかった。例えば、私が突然高熱を発し、村の人たちに「これは何の病気だろう?」と訊いたら、彼らは「それは『サイ・ホイット(熱病)』だ!」と言う。それはそうだろう。熱が出ているんだから。ワ語(村言葉)では頭が痛ければ「サイ・ガイン(頭痛病)」、お腹が痛ければ「サイ・ヴァイッド(腹痛病)」という。それらは全て症状でしかない。「症状=病名」なのだ。

 ちなみに、私の病気はマラリアだった。体がだるいと思った次の瞬間には熱がどーっと上がるのは、コンゴで罹患したマラリアがパリで発症したときとそっくりだった。

 たまたま発症したのはムイレ村ではなく、街道に面した大きな村だった。ここには「医生(医者)」がいると聞き、そこへ連れて行ってもらった。医者は留守だったので、寝台に横たわって待った。医者という人が帰ってきたので、四〇度超の高熱を示す体温計見せると、彼は驚愕して言った。「このきれいな棒は何だ?」

 私は絶望したが、こちらの気持ちを頓着せず、医者は「ねえ、これ何?」「きれいだな~」と体温計に魅せられていた。

 実はこの人物、単に月に一度くらい首都パンサンに出かけて市場で薬を買い込み、村で販売しているだけだった。それでも、その地域では「医者」として通用していたのだ。