久米宏対話集 最後の晩餐

最後の晩餐 久米宏対話集

 昨日の本で触れられていた、ニュースステーションの1コーナー「最後の晩餐」の編集する前のロングインタビューを活字にした本です。

 もう四半世紀前のものですが、新鮮に読めました。

 

 こちらはいかりや長介さん。

P203

久米 今日はいかりやさんに、食べ物の話をおうかがいしようと思うんです。それも究極の食べ物といいますか、つまり、明日はもう、あなたは死ぬんだと言われたら、最後の食事は何にするかということなんですけれども。

いかりや いやあ、ぶっちゃけた話、そのお話をうかがいまして、それで以前にも、やはり、この番組を拝見しましてね、思い悩みましたけど、結局、わりとあっさりしたとこにいっちゃいましてねえ。しらす大根おろしで、さっと醤油を垂らして、温かい炊き立てのご飯で、というのが食べられたらばいいなと。

 ・・・

 ・・・私の場合は、父親の影響なんです。父親がこうやって食べるんだよっていうのを見ていて。

久米 お父さんは、どうやって食べていらしたんですか。

いかりや これは話が前後しちゃいますけれども、うちの親父は大酒飲みでしてね。八十六歳で三年前に逝ったんですけれども、八十六歳になっても、なおかつ二日酔いやってる親父でして。二日酔いになると、自分の部屋にこもっちゃうんですね。頭、抱えて、「もう、酒、やめた」なんて、それを八十六歳でやってるんですからね(笑)。

 そのうちに、その親父がもそもそっと出てくるんですね。家族に迷惑かけないようにというのでしょうか、一人用の小さい炊飯器がありましてね。それで自分でお米をといで、炊いてですね、で、孫に「しらす、ちょっと行って来い」って、魚屋に買わせにいって。それが台所で始まると、もう二日酔いから立ち直ったといいますか、「ああ、親父、また元気になったな。間もなく、また飲むな」という(笑)。

 ・・・

久米 で、亡くなりかたもお酒なんですってね。

いかりや そうです。だから、私はね、「お父さん、なんで亡くなった?」「二日酔いで死んだ」って、今でも、そう言ってるんですけど(笑)。富士の近所、伊豆のほうに温泉場がたくさんありましてね、長岡かどっかに、老人会かなんかでバスを仕立てましてね、土曜日の晩に行って、向こうでどんちゃん騒ぎをして。そういうのが好きなんですよ。

久米 でも、八十六歳でいらっしゃったんでしょ?

いかりや そうです。でも、「おまえ、ちょっとね、あそこの婆さん、様子がいいんだよ」とか、そういうふうに言うんですよ。「七十ちょい手前なんだけど、女盛りだなあ」とかね(笑)。

久米 そういう人だったら、お酒のブレーキは利きませんね。

いかりや それでですね、帰ってきまして、で、例によって二日酔いでね。

久米 部屋にこもったんですか。

いかりや ええ。それで次の日、ちょっと具合が悪くなって。普通は手当の仕方があるでしょう、病院で点滴やるとか。だけど日曜日だったもんで、孫といちおう病院に行ったんですけれども、ちょっと薬をもらって帰ってきて。それで、「ああ、くたびれた」って言って、上がり框に腰を下ろして、「うーん」って言って、それっきりなんですよ。

久米 バスに乗って、団体旅行に行って、飲み過ぎて、翌日「ああー」って亡くなっちゃったんですか。

いかりや そうなんですよ。向こうで大騒ぎして。もう、そういうところに行くと、ムードメーカーらしいんですよ。あちこちのおばあさんのお尻、触ったりなんかして(笑)。

久米 ムードメーカーって言うんですか、それ。

いかりや そうらしいですよ(笑)。「やっぱり碇矢さんが行かなきゃ」とかおだてられて、「そうかい、そうかい」って行って。で、社交ダンスやったりとかね。けっこうエンジョイしてましたですね。

 ・・・

久米 酒をしこたま飲んで、最後のバカ騒ぎをやって、うまい魚を食って(笑)。

いかりや そうそう(笑)。

久米 何ヶ月、何年間、入院して亡くなるという死に方に比べたら、すばらしいですね。

 ・・・

いかりや ・・・ふっと考えてみたら、もちろん、私が生まれたときから父親は当然いるわけですけど、ずーっと、ぼくのつっかえ棒みたいなものでしてね。早いときにお父さんを亡くした方というのは、そんなに苦にしてないかもしれないけれども、親父が死んだのは、私が六十二歳のときかな、三のときなんですよ。

 ですから、六十三年間という長きにわたりまして、私は父親がいないという人生を一度も生きたことが、当然ないわけですね。ですから、そのつっかえ棒がはずれたときに、自立心が……、この年になって、ほんとにばかばかしいとお思いでしょうけどね、自立心がつくまでというのは、ちょっと時間がかかりましたね。どうしていいんだかわからなくて。

 ・・・

 ・・・魚河岸なんかの人の気っ風というのは、キレやすいんだけど、次の日は忘れてる。そういう親父の性格というのは、こういうところで培われたのかなあ。

 ・・・

 親父も、築地のなかでいろいろ物を運んだり魚を運んで、ワーとか、エイッてなことをやったんでしょう。で、ぶつかったの、体に触ったの、この野郎と、すぐに喧嘩になって、そのたびに負ける。それが悔しくて、自分の小遣いで水道橋の講道館へ行って、三段までいったんですよね。それで、それは魚河岸のなかでなめられたくなかったからということですよね。

久米 魚河岸での喧嘩に負けたくなくて、講道館に行って有段者になるというのはすごいですね。

いかりや で、私に「おまえな、喧嘩するときはな」っていうふうに教えるんですよ。・・・

 だけど、喧嘩でいちばん大事なことは、早く逃げることだと言うんですよ(笑)。よんどころなく喧嘩に巻き込まれて、自分も見栄張らなきゃいけないときとかあるじゃないですか。喧嘩というのは、そこで自分の我が通って顔が立てばいいんであって、相手を傷つけるのが目的ではないと。そうしないと、それはあとまで残っちゃうというんですね。怪我させちゃうと、あくる日、「よっ」とはいかないと言うんですよ。

久米 いちばんいいのは逃げることだ、というのを教えてくださったということは、非常にすばらしいですね。

いかりや 今考えると、そうですね。人を傷つけてなんの得になると。あとあとまで残るぞって言うんですね。だけど、それ以前に、負けちゃいけないというのがあるんですよ(笑)。

久米 負けちゃいけない、うまく逃げろと、これは、なかなか両立しませんよ(笑)。

いかりや でも、それが、喧嘩のうまいやつなんだと。「そうすれば河岸の中でも、あいつは喧嘩がうまいって、褒められるんだよ」って。そんなことを言ってましたね。