随縁つらつら対談

随縁つらつら対談

 本願寺出版社の月刊誌「大乗」での連載「随縁対談」の中からいくつか選んで収録された本です。

 とても興味深く読みました。

 

 こちらはみうらじゅんさん。

P101

釈 みうらさんの仏像好きは、小学生のときからだそうですね。中でも、四天王像に踏みつけられている邪鬼を見て、自分だと感じたとか。

みうら 小学校の作文に「僕のことだ」と書いていました(笑)。当時、『邪鬼の性』(淡交新社)という写真集まで親に買ってもらうくらい好きでした。踏みつける四天王は写っていなくて、下の邪鬼ばっかりの写真集です。

釈 すごい宗教センスの小学生(笑)。

みうら 今でいうマニア本ですよね(笑)。仏像には経典に基づいた決まりが多いですが、邪鬼は自由度があってオリジナリティが表現できる部分だから、仏師は存分にナタを振るえたと思うんですよ。

釈 みうらさんはウルトラマン世代ですね。周りはみんな怪獣好きだったでしょう?

みうら 当然、怪獣も好き。それが高じて仏像の世界に入った感じです。ウルトラマン弥勒だと思って見ていました。ウルトラマンはM78星雲から地球を守るためにやってきますが、それはお釈迦さま入滅後、五十六億七千万年の後に出現する弥勒と重なるのではないかと。地球を救うために葛藤を抱えているから、如来ではなく菩薩なんでしょう。

釈 なるほど、おもしろいですね。そんな小学生の仏像好きが高じて、仏教系の中学校へと進学したわけですね。そして仏像ブームの立役者に……。ブームと言えば、みうらさんの造語「マイブーム」が流行語大賞になりましたね。それに「ゆるキャラ」というネーミングもみうらさんによるものです。

みうら 「ゆるキャラ」という名前は考えて十二年くらいになります。当時、雑誌で連載しようと思って、写真を撮らせてほしいと地方自治体に依頼の電話をしたら、「うちのはゆるくない」ってカンカンに怒られたもんです(笑)。しょうがないから「ゆるキャラ」の『ゆ』はユニークの『ゆ』です」と嘘までついて写真を借りたりしていたんですよ。それが「ひこにゃん」以降ですかね、「うちはこんなにゆるいんです」と、向こうから載せてくださいと頼まれるようにまでなりましたからね。常識って変わるんですよ。マイナスのことがプラスになることがあるし、当然プラスがマイナスになることもあるから。・・・

釈 「ゆるキャラ」は、特産物とか、優しい目とか、いかにも手作りっぽい着ぐるみとか、丸っぽさとか、いくつかの記号を内包しているわけですが、それが制作した人々の思惑やメッセージとは別の「ゆるさ」を発しているわけですよね。その意図されたものではない「ゆるさ」をみんなが受け取っている。真面目に取り組んだ結果、おかしなものが生まれたりしますでしょう。

みうら 真面目にやっていると、特におかしなものが生まれますね。

釈 それを、みうらさんはいとおしいまなざしで見つめていらしゃるわけですね。

みうら おもしろいじゃないですか、語り合えることが楽しいんです。・・・

 ・・・

釈 仏像だけじゃなくて、仏教についても、みうらさんの言葉で書いたり話したりしてらっしゃいますよね。苦難の人生を生き抜くための「僕滅運動」も、「僕」を「滅する」という、まさに仏教です。

みうら おやじギャグですけど(笑)。それをおやじギャグと思わせないように紹介するのが仕事です。どこかに「おふざけ」を入れないとよくないと思うんですよ。「僕滅運動」と呼ぶことで、もっとポップにしたいんです。身近にいつも思っていたいですから。

釈 苦しい人生を生きるために「縁起」の立場に立つというのが仏教です。自分というものは確たるものであって、譲れない一線であるとなれば、ますます苦難の人生になっていきます。「自分はいろんなものの集合で、この場は一時的な現象だ」という立場に立つことによって執着から離れるわけです。それにしても「縁起」や「空」などの仏教の難しい言葉を、現代人に届くよう変換するのはものすごく才能が要ると思います。

みうら 中学高校の六年間ずっと仏教の時間があったんですが、その時期って男として煩悩が最高に高まっているときでしょう(笑)。「縁起」と言われてもピンとこない。「僕滅運動」とか「比較三原則」なんて考えたのは、「それって『僕』を滅やん」とか「他人と比較しない。過去の自分と比較しない。親とも比較したらあかんねん」とか、ちょっと笑いを入れたら、すっと入るんじゃないあと、そのときずっと思っていました。釈さんがおっしゃったように、ずいぶん仏教の用語を変えちゃいました。これも「自分なくしの旅」の一環ですから。

釈 「自分さがし」じゃなくて。

 ・・・

 うーん。とても大事なことを、軽妙さと笑いを織り込みながら語っておられますね。

みうら 「ふざけ」てるわけじゃないんです。「真面目」って度が過ぎると病気ですから。そもそも人間って、自分のためには真面目でしょ。他人には不真面目だけどね。真面目はいいけれど、みんな自分のために真面目すぎて、自分の欲ばかり主張するようになりますからね。「僕滅運動」も自分にもっと不真面目でいようという運動です(笑)。

 ・・・

 仏教って、お釈迦さまがすごい昔に「生きることは苦である」って、もうバチーンとコピーを決めたわけじゃないですか。いつの時代にもそれに当てはまらないことは一切ないですから。

釈 人類規模のキャッチコピーですからね。

みうら 誰にでも当てはまるし、そうじゃない人はいないと言っても過言ではないというくらいの名キャッチコピー。

釈 「生きることは苦である」の「苦」は、中国で「苦」と翻訳したんですが、元はパーリ語の「ドゥッカ」とかサンスクリット語の「ドウクハ」で、丁寧に訳すと「思い通りにならない」という意味なんですね。それが則ち「苦」であるという翻訳なんです。「生きることは思い通りにならない」、その通り。誰にでも当てはまる。・・・

みうら 若い頃「人生は苦である」にピンとこなかったのは、いつか修正がきくと思ってたんですよ。けれど、自分がある程度歳を重ねていったときに「自分もいずれ死ぬんじゃないかな」と、何となくうすうす気がついて……(笑)。

釈 「どうやら俺も死ぬらしい」という噂を小耳にはさむ(笑)。

みうら そう、小耳にはさんだあたりから、苦はなくならないなら、これは辻褄を合わせていくしかないなと、

 ・・・

釈 ところでみうらさんは、自分をうまくコントロールする「ご機嫌作戦」を実践しておられますね。

みうら 「ご機嫌作戦」というのは、ただ単に相手のご機嫌を取っていくだけなんです。

釈 ご機嫌について書いておられますよね。もともと「機嫌」自体が仏教用語だと。

みうら ええ。相手の機嫌がいいと自分の機嫌もよくなるということがわかります。それで相手のご機嫌を取るんだけれど、「俺だってしんどいのに、何でお前はもっとしんどいって目で訴えてくるんだ」なんて思うと、やっぱり腹が立つわけで、問題はそこをどうするかだけなんですよね。

 ・・・

釈 ・・・「ああこれはパッとしないな」と感じたときこそ、「そこがいいんじゃない!」と口に称えて即!容認する「念仏戦法」というのも実践されている。これも大事ですよね。なにしろ今はずいぶん不寛容な社会になっています。

みうら 否定する方が容認するより賢そうに見えるからでしょう。「いいんじゃないの、それで」って容認すると、あまり物事を考えてないみたいだし。でも即!容認するって、一番難しいことじゃないかな。自分と違っているものに対して、人はすぐ攻撃する。だから、そうしないよう、逆に「いいんじゃないの、そこが」って言って自分にそう仕向けなきゃ、ですね。

釈 まず称える、なのですね。

みうら 「そこがいいんじゃない!」は、否定的なことを思ったときにやってる修行みたいなもんです。「いい」って肯定すれば、脳も「ええっ⁉」って言うと思うんですよね。例えば「しんどい」って言う前に「しんどいのがいいんじゃない」って全部肯定していくんです。