はっとりさんちの狩猟な毎日

はっとりさんちの狩猟な毎日

 獲物を調達しながら山を旅することをライフワークにしている夫や、子どもたちとの日々が文章とイラストで紹介されています。

 いろんな価値観に触れられて面白かったです。

 

P126

 子供たちが、アクの強い父親を広い心で受けとめているのはどういうわけだろう。母親としてどうするべきか、と考えすぎて、私は本心でもないことを子供に押し付けたり、ついコントロールしようとする。文祥は常に子供と対等に向き合い、本人に任せる。その距離の取り方が、子供たちにとっては嬉しいのだと思う。子供たちと接する時間は限られているが、父親本人が本気で実践しているだけに、たまに言うひと言には説得力があるようだ。

「鼻で息をしろ」「シンメトリックに座れ」「自分が愛する人生を生きろ、byボブ・マーリー」。だいたいいつも同じようなことだ。

 一方で次男は、「あの人はすげえパワフルだから、何を言っても、絶対負ける気がする」と、地雷を踏まないように気をつけている。うっかり服を買いたいなどと言えば、「服なんていくらでもあるじゃねーか」と、文祥が着古した服がひっぱり出されてくるし、お昼にマックを食べた、などとうっかり言おうものなら、アメリカの歪んだ国策についての話を延々と聞かされるはめになる。

 父親の生き方=この家の暮らし方に、半ばあきらめながらつき合っている子供たちも、私には素顔を見せる。秋は、「ニトリ」でインテリアをすべてそろえたい、ハワイ旅行をしてみたい、将来はセキスイハウスに住みたい、とさっきまでテレビで流れていたCMそのまんまのことを言うし、長男は彼女ができてもこんな家には「ぜってー呼べねー」と言っている。

「あのねぇ、動物の骨がぶら下がってる家なんてある?」

「この辺に積んである本、じゃまだからぜーんぶ捨てればいいんじゃない?」

「エアコン買っちゃおうぜ」

 父をリスペクトしているはずの次男も、文祥がいないときは言いたい放題である。

 

P156

 冬の間、なるべく人に会わず家にこもってちゃぶ台に張り付いていた。生活のことをテーマに原稿を書いていたら、日々の生活が回らなくなった。5人分の衣類が洗濯されたあと山積みにしてある。すっかり日が暮れて、今日の夕飯はなに?と聞かれても、答えられない。ついに、冷蔵庫にあるもので何やら作りはじめる者がいる。

「ごめんごめん。今、山場だから」

 子供たちは私のその言葉だけでなく、やっていることそのものに疑いのマナコを向けた。

「母ちゃんが本を出すの?父ちゃんじゃなくて?」「そんなバカな……」

 絵を描くことは私にとってシンプルなことだが、文字表現は思っていたよりずっと難しかった。人は言葉によって心を表現するが、同時にウソをつく。その点、犬は言葉をもたないのでウソをつかない。

「結局、普通に書くのが一番いいんだなって思った」とつぶやくと、

「今頃?本当はそこから始まるのにね」と玄次郎が応えた。

 

こちらは巻末にあった、夫の文祥さんのエッセイです。

P150

小雪さんはえらい」と本人にではなく、なぜか私に言う人がいる。かなりの数である。

「あなたがそうやって生きられるのも、小雪さんのおかげだ」と続く。

 ちょっと待って欲しい。狩猟をすることも、崖に建つ家に住むことも、ニワトリや犬猫を飼うことも、もっというと、結婚することも―小雪は当初、難色を示し、ささやかに抵抗したのだ。それを私がやや強引に押し通した。

 小雪の意見を尊重していたら、そもそもこの生活はないのである。だからこの生活が誰のおかげかあえていうなら、それは私のおかげなのだ。

 ということを馬鹿正直に説明して、私はよく呆れられる。

 ・・・

 小雪もときどき「あなたみたいな人間は家庭を作るべきではなかった」と言ったりする。自分が言っていることの矛盾は承知の上で、自分勝手な私を遠回しに避難しつつ、自分が寛容な人間であることをほのめかしているのだろう。

 本書にもあるように小雪は世間体や常識を気にするきらいがある。少なくとも私に比べると気にしている。

 常識が、これまで人類が積み重ねてきた英知の暫定的な最終回答であるなら判断基準にしてもいい。だが一般に常識とされることには、経済成長のために摺り込まれた価値観や、集団がお互いを監視するネジ曲がった自警思想が含まれている(気がする)。

 常識(たとえば携帯電話を持てとか、まともな大学に行って就職しろとか)に、「WHY」をずっと突きつけていくと、最後にその出所はわからなくなる。好意的に解釈すると「その先に幸せがあるから」ということなのだろう。でも、幸せとはなにかがわからない。というかどうやらそれも常識で決まるらしい。

 ・・・

 私が常識を疑うようになったのは、登山経験の結果である。危険なことはするべきではないという常識に則れば、登山など愚の骨頂。だが私の目には、危険を避けて生きている人より、山で命を燃やしている山ヤのほうが魅力的に映った。そして自然界に入れば、すべて自分で判断しなければならなかった。命がかかっている状況で、常識に判断を委ねるのは端的に危険である。時には、非常識だけがその先の生存につながっていることがある。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

 上手に生きると、楽しく生き残るは、微妙にズレている。楽しく生き延びようと思ったら、あまり常識に囚われてはいけない。私としては楽しくやろうとした結果が現状なのだ。

 ・・・

 ・・・私が家庭内で子どもに強いたことはたぶん三つ。

一. 家族間でも挨拶をすること(兄妹間では守られていない)。

二. 食事のときはシンメトリックに座ること。

三. 歯をきちんと磨く(歯の健康を守る)こと。

「空気は酸素と窒素と挨拶でできている」という名台詞がある。人間社会で生きていくなら、挨拶はやっておいて損をすることはない。食事のときはシンメトリックに座るということに深い意味はない。日々、家族が料理したものをちゃんと食べるということの延長線上にきちんと座るがある。歯の健康は体の健康に直接つながっている。健康と幸福はかなり近い概念だと私は思っている。・・・