モノの見方に囚われる

サイエンスとスピリチュアルのあいだ (ワニプラス)

 天外さんが、意識の成長・発達のサイクルについて説明している部分です。

 

P179

 3歳くらいまでの赤ん坊にとって、世界とは「目に見えているところ」がすべてです。つまり「目に見えていない世界に隠れる」という概念がないので、「いないいないばあ」は、それまで存在しなかった人が突然世界に現れることになります。だから、何度も驚き、喜ぶわけです。しかし「自分の目に見える範囲の外側にも世界は存在する」ことに気づけば、この遊びで驚くことはありません。これが世界との分離で、意識が成長したことで、自分の主観とは違う「客観的な世界」という概念が生まれる段階です。

 そこから自我が芽生え始めます。

 

P187

 ・・・カウンターカルチャーの時代におこなわれたLSDセッション・・・たとえば手前にモノが置かれていればその向こう側は見えません。これはサイエンスでは当たり前のことですが、LSDを摂取するとモノの後ろ側が見えることがあるんです。それどころか高層階にある室内にいて、ビルの入口から入ってくる人の姿が見えたり、極端な話、はるか離れたところが見えることさえあります。

 同様の認知はドラッグなしでも起こります。瞑想をしていると目撃の体験(自分で自分の姿が見えてしまう体験)をすることがあります。・・・ランナーズハイにも似た現象があって、走っている自分の姿が見えます。・・・

 私自身もいろいろ体験しています。・・・

 ・・・多くの人は「信じられない」とおっしゃると思います。それは、現代日本ではサイエンスの文化が強いせいで、サイエンスのモノの見方に囚われているからだ、というのがトランスパーソナル心理学の学者たちの立場なのです。

 我々人間は眼球で見ている・・・と考える。私も脳科学を研究していましたし、脳の解剖をやらせてもらったことがありますから、それは知っています。でも、そういうメカニズムとはまったく違う見え方というものが存在するんです。・・・

 というわけで、現代日本人のほとんどが理科で教わったとおりのメカニズムでしか見えないのは「集団がそう認識するように約束しているからだ」というのがメンバーシップ認識の考え方なのです。

 その下に集合的一般常識とあるのは私のつくった概念で、メンバーシップ認識と同様に、「ある集団が常識としている一種の縛りのようなもの」のことです。

 ・・・その一例としてこんなお話を・・・ある法医学の先生に聞いた話ですが、アメリカでは22口径のピストルで撃たれても、頭か心臓に当たらない限り、ケガは負うけれど、まず死ぬことはないそうです。ところが日本では、それ以外の場所に当たっても死に至ることが多いと言うんです。

 この違いは、・・・常識の差だと私は考えています。つまり「ピストルで撃たれたら死ぬ」という常識が日本人にはある。・・・そうした常識を持つ集団に属している人は、・・・医学的には死ぬ必要性のなかった人まで死んでしまう。

 ・・・

 ですから、事実があるから常識になるのではなく、常識どおりの事実が起きているということになりますね。これが集合的一般常識で、メンバーシップ認識と同様に、みな自分が属している集団のそうした縛りに囚われている。そうしたほうが、その集団では暮らしやすいからです。