ありのままがあるところ

ありのままがあるところ

 鹿児島にある「しょうぶ学園」の施設長さんが、今にいたるまでに考えたこと、試したこと、変わったことなどを語ってくれている本、とても興味深かったです。

 表紙をめくると「その人にとって楽しいことなら、ずっとできる。ここにいると、当たり前が逆転するんです。」と書いてあって、いいなーと思いました。

 

P9

 しょうぶ学園には、「穴掘り人形」というキャラクターがある。

 三〇年ほど前、ある利用者に「穴を掘ってください」とお願いした。昔は生ゴミを園内にあった畑の片隅に埋めていたので穴を掘る必要があったのだ。そのことは本人もわかっていたから任せても大丈夫だと思っていた。夕方、部屋に彼の姿がないので探していた。畑の近くを通りかかると穴の中から人の声がした。見ると彼は身の丈以上の深さに掘り進めていて、穴から出られなくなっていた。

 私は彼に「どれくらい掘ればいいか」と作業の目安を説明していなかったのだ。穴の中にいる彼を目にした瞬間、その一途で純粋な無心の行為に驚嘆し、心から彼や彼女に寄り添っていきたいと思った。人間本来の営みは、自然任せなのであると。それは、我々が失いつつあるものであった。

 ・・・

 穴を掘る彼をはじめ、私たちの目の前で日々繰り広げられていたのは、今の現実を否定せず、相手や環境に逆らわずに物事を自然に決定していく姿だった。目的もわからない、即興にも似た行いは彼らにとってはナチュラルなのに私たちにはハプニングに見えた。だから「そんなことをしてどうするのか。それよりか何か実のあることが実現できるようになった方がいいのではないか」とすら言うこともあった。

 そんな問いかけをするのをやめたのは、彼らの行いには達成目標がなく失敗ということもないのだと気づいたからだ。他人に感化されない、影響を受けない。人間の根源的欲求がそのまま現れているように見える。そのことがわかり始めてからは泣いたり、笑ったり、怒ったり、悲しんだりといった感情に介入することはそもそもできないとわきまえた。そして食べる、寝る、遊ぶ、そうした日常のケアをする場合も、私たちの価値観や常識ではなく、彼らの独特な価値観に基づいていけばいいと気づいた。

 そうすれば必ず人間のおもしろさに出会う。

 

P25

 しょうぶ学園には服や刺繍などテキスタイル全般を扱う「nuiプロジェクト」がある。現在、ここを取りまとめているのは、私が鹿児島に戻る際に結婚した妻の順子だ。nuiプロジェクトの前身である布の工房では刺繍のほか、大島紬の機織りの下請けもしていた。機織りに歪みやずれは禁物だ。ちゃんとした形にならなければ糸を解いてやり直さなくてはいけない。刺繍に関してはあらかじめ線を引き、そこを縫ってもらうようにしていた。きちんと線通りに縫えなかったら「もう一回がんばろうね」と声をかけて、またやり直す。「もう一回がんばろうね」に「うん、わかった」と返事しても、まっすぐに縫えない。どうしても線から逸れたり縫い過ぎてしまう。「そうではないよ」と指導すると、やりづらそうな利用者の浮かぬ表情に出会う。私が木工でぶつかった壁に順子もまた直面していた。その頃の私たち二人は仕事が終わって顔を合わせると、彫り過ぎたり、縫い過ぎたり外れたりする行為についていつも話し合っていた。「ここまでやるの?」「ここで止めるの?」「この感覚はなんなのか?」と思いがけない表現行為がどうしてか気になっていた。

 順子は私と違って根気強いというかマイペースな性分で、こちらの意図に沿っていない、過度に施された刺繍に心惹かれていたようだった。利用者の刺繍した布を引き出しの中に溜め、いつ誰が作ったのかも記録していた。

 そういう毎日を繰り返すうちに、楽しそうに木くずにしたり縫い過ぎたりしていることをやめさせ、難しいことを克服してできないことができるようになるのが彼らにとって本当にいいことなのかどうかわからないと思うようになった。

 もしかしたら支援する側に「穴を開けずに彫る」「まっすぐに縫う」という意図や目的が最初からあるので、利用者にやりづらさが生じるのかもしれない。そこではたと気づいた。好きなようにすれば当然やりやすいはずだ。

 まじめな健常者は普通、困難な課題を克服し、新しい技術を獲得し、能力が増していくことに喜びを覚える。つまり、できないことができるようになることが重要になる。そこまでして苦手なことを克服しようとするのはどうしてかというと、健常者には他人から評価されるようになるとか、そうしたことで充実感を得られる欲があるからだ。

 けれども彼らには、できないことを克服しないといけない理由がまったくない。なのにどうして私は彼らをがんばらせて私たちの意図する目的をやり遂げさせようとしているのだろう。できないことができるようになるのが良いのだという考えがぐらついて来たのは確かだ。

 ・・・そして見えて来るのは、その人に向いていないことを強いている、その人らしさを否定し、無理矢理変えようとしている自分だった。そんなことを考えるようになった時、脳裏をよぎったのは、妻の順子が以前見せてくれた布の塊だった。

 ある日、順子は「やりたがっていない人にこれ以上、無理をさせないほうがいいと思う」と私に言うと、「ほら、これ、なんか良いと思わない?」と固く丸まった布を見せてくれた。利用者の郁代さんが作ったものだ。順子はもう無理にまっすぐ縫わせることをやめていた。

 目の前に差し出された布は、本来なら平面的なステッチ模様で刺繍を施すべきものだ。郁代さんはそれを無視して布自体が丸まるまで固く縫い上げていた。これもまた製品にはならない。けれども、瞬時にそのてらいのない美しい配色と形状のおもしろさに魅了された。

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「もっと好きなようにすればいいよ」と順子が言うと、彼らは初めまっすぐ縫わなくていいことに対して困った顔をしたという。本当に好きなように縫っていいの?と戸惑う表情をしては、「こんなのでいいのかな?」とおずおずと何度も見せに来た。ところが、だんだんと重ねるうちに「これでいいでしょ!」と自信のある態度に変わってきたのだ。

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 ただ縫う、ただ削る。

 ただひたすらに手を動かし続けるという行為を見つめていると、うまく縫う、削るといった結果ではなく、目的や常識から逸脱することにかける無意識のエネルギーがそこに生まれていることに気づいた。・・・

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 目的を持たないということは、身体の求める方向に素直に従って生きることであり、決して怠惰な生き方ではない。・・・

 その先には作品としての完成もない。評価もいらない。心がざわつけば不穏になる。嬉しいと笑顔になる。修行もしていないのに心と身体が合致している生き方。目的を持って必死にそこに向かう生き方もいいけれど、目的を持たないという美意識に私は憧れる。