いろんな思い

神さまたちの遊ぶ庭 (光文社文庫)

 こういう思いをちゃんと感じて生きていること、大事だなと思いながら読みました。

 

P202 十一月某日 ご近所のこと

 隣の純子さんと家の前で会って、「久しぶり!」と笑う。そんなに久しぶりじゃない。ただ、十月に学芸会があってしょっちゅう会っていたせいで、数日顔を見ないと久しぶり感が募るのだ。

 ここは小中学校を中心に、地域の人が集まる機会がたびたびある。忙しいけど、楽しい。ずっとひとりで、あるいは家族とだけつきあっているより、人と関わりを持てるほうがいい。少なくとも私はそうだ。昔からここに住んでいる人、最近来た人、あるいは先生だとか、移住者だとか、山村留学生だとか、いろいろな立場で気持ちも違うだろう。年齢や、家族構成によっても変わると思う。ここに住んでいても、みんなでわいわいやりたいときもあるし、ひとりになりたいときもある。僻地だから助け合いが必要なのではないか、と言われれば、たしかにそれもあると思う。でも、それなら都会では地域の助け合いは要らないのか。そうではないだろう。都会でだってちょっとした知り合いが近所にいてくれることが心強かったり、実際に助けられたりすることがある。山の中だからこそ、プライベートはプライベートで死守したい部分もあるだろう。ときどきはつきあいが重くも感じられるかもしれない。でも、地域の人たちの顔と名前がわかって挨拶しあえて、年にいくつかの行事を共有できるのは、とても楽しいことだ。

「ここへ来てくれただけでいいんだよ」

 そう言って笑ってくれる人たちに囲まれて、私たち家族は幸せだ。でも、申し訳ない気持ちもつねにある。これまでに何年も何十年もかけて育ててきた町内会だ。飛び入りで参加させてもらって楽しいっていうのは、ちょっとお気楽だろう。

 子供に助けられている。子供がつないでくれている。子供たちがいるから、私たち家族はすんなりとここに交ぜてもらうことができた。いつか何かの形で恩返しをしたい、と思うけれど、具体的な方法をまだ思いつけずにいる。

 

P222 十二月某日 なんとなく憤る

 そんなところで暮らしているとネタが増えていいですね、というようなことを東京の人に言われる。

「何のネタですか?」

 とぼけて聞き返す。

「小説やエッセイのネタです。事欠かないでしょう」

 ネタという言い方もよくわからないが、なんというか根本から間違っている気がする。小説やエッセイのために人生があるわけではないのだ。

 田舎の人は素朴でいいでしょう、などとも言う。田舎の人は素朴か。そうだとも言えるし、そうではないとも言える。人によってだ。当たり前の話だ。都会の人はみんな冷たいか。みんなせかせかと忙しなくていつも疲れているのか。そういう人も多いかもしれないが、そうでない人もいる。田舎の人は素朴でいい、などと簡単に言える人の頭の中のほうがよっぽど素朴だと思う。

「よかったら、来て、確かめてみませんか」

 礼儀として、誘ってみる。そういう人は、すぐに断る。なぜか寒さや雪を否定的なものとしてとらえている。楽しいのにね。

 それから、最寄りのスーパーまで車で三十分以上かかるというのも信じられないらしい。でも、都会なら通勤に三十分以上かかる人がたくさんいるだろう。会社には毎日通わなくてはならないが、買い物はたまに行けば済む。それなのに、スーパーまで三十分かかることを不便に思うというのは、ちょっと頭が固い気がする。

 

P268 二月某日 教育懇談会

 放課後、招集がかかった。すべての教職員と保護者、加えて多くの地域の人たちも学校に集まる。学校の教育方針について話し合うらしい。

 議題は、雪山。校庭につくられた雪山の遊び方にルールを設けるのは、是か非か。

 事の発端はこうだ。雪山を橇で滑る子と、スキーで滑る子、生身で遊ぶ子、入り乱れ、相当危ない。いくら校庭にあるとはいえ、先生が放課後までいつも見守っていられるわけじゃない。そこで、遊び時の簡単なルールを中学生が中心になってつくった。

 ちょっと待って、と声が上がる。

「遊びにまでルールはいらないでしょう」

「でも、子供って、実際に、とんでもない遊びをしちゃうんですよ」

 PTA会長の幸太さんが、

「ここはトムラウシです。山や森に一歩入れば、もうルールなんてないんです。自分で自分の身を守るしかない。自分たちで考える訓練が必要でしょう。安易なルールなんてないほうがいい」

 げげっ、かっこいい。他のお母さんも賛同する。

「遊ぶときにこそ、いろいろ学べると思います。もしもそれで事故が起きたとしても、もちろん、学校のせいにはしません」

 中一学級のイズミノ先生が、手を挙げる。

「僕は、今年、中一の三人を担任して、もう、三人がめんこくてめんこくてたまらないんです。朝起きて、ああ今日もあの三人に会える、と思うとはりきって学校に来ちゃうぐらいです」

 急に何の話を始めるのかと思う。イズミノ先生は続けた。

「一部の子供たちが、雪山でどんなに危険な遊び方をしているか、知ってますか。あれでもし事故が起きて、万一、三人のうちの誰かがもう目を覚まさないなんてことになったら、考えただけでも怖くて、つらくて、僕ももう生きていけないと思います。お母さん方ならその気持ちはもっと強いんじゃないですか」

 しーんとなった。イズミノ先生は目に涙を溜めていて、胸がぐっと詰まった。めんこくてめんこくて、と言ってもらっている三人の中のひとりは、うちの次男なのだ。

「雪山で遊んでて大怪我した子や、まして死んだ子なんて、ここでは聞かないなあ」

 反対意見も出る。侃々諤々、二時間。議論できるのはすごい。現在小中学校に通う子供のいない人も、あたたかく見守るどころじゃなくて、熱い。子供がいようといまいと、学校をとても大事に考えている。

 たしかに、学校はとても大事だ。この地域の子供たちはみんなここで育って大きくなっていくのだ。コミュニティスクールに近いかもしれない。

 異論も出るし極論も出る。若い先生が熱くなって暴走する。今ここでそれを言ったら不利だよと止めてあげたい気持ちになったり、逆に目を見開かされたり。

 教職員十一人のうち七人が二十代で、保護者の平均年齢はたぶん四十代。地域の人はもう少し上だ。みんなきちんと自分の考えを発言する。私も話した。夫が黙っているので、何か言いなよとテーブルの下でこっそり脇腹を突いていたら、先生にしっかり見られていた。

「教室にすわって勉強するより、雪山で遊んで身につけることのほうが大事なんじゃないかなあ」

 地域の人から出た意見に、それはそうだとみんなうなずく。山村留学家族の保護者からの「自然の中で育てたくてここへ来た。勉強は二の次なんです」という発言が沁みる。そうだ。勉強が一番大事だと思っている親はここへは絶対に来ないだろう。加えて言うなら、お金が大事だと思っている親もここへは来ない。おおもとの価値観ははじめから一致している。だけど、差はある。幅がある。勉強は、一番や二番だとは思わないが、大事ではあると私は思っている。いろんなところにいろんなことの芽が潜んでいて、それを見つけて育てていけるといい。勉強せずにそれを得るのは、むしろかなりむずかしいことだと思うのだ。

 

P272 二月某日 この父にして

 家にソチ時間で暮らしている人がいる。夜中あるいは明け方までテレビを観ている。朝は起きてこない。眠たげに起き出してきたと思ったら、またオリンピックダイジェストを観ている。それはまあいい。いっそ好きなだけ観ればいいと思う。しかし、曲がりなりにもうちには中三生がいる。入試本番まであと二週間というときである。勉強なんてオリンピックが終わってからやればいいよと息子に言う、そののんきさがつくづく謎だ。