不正が前提?

ようこそアラブへ

 不正についての考え方も、幸運についての考え方も、印象に残りました。

 

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 ここで少し面白い話をします。全国の公立校の期末試験はすべて、連邦教育省が毎年作成します。学期も終わりに近づくと、試験用紙はがっちり封印した袋に入れられ、各首長国教育委員会に直接車で搬入されます。それを、教育委員会は鍵のかかった金庫に厳重に保管します。試験直前、教育委員会首長国内に散らばる各学校に配布して、学校も金庫に保管します。事前に漏れたりしては大問題になるのです。特に高三の学年末試験は、厳重にも厳重に保管されます。

 どの学校でも、期末試験は自分たちの教室ではなく、壁からすべての展示物をはがした、まったく別の学年の教室で行われます。机は、教室の左右と中央に三列に並べられ、前後も二メートル以上の間隔を取って配置されます。すると名簿の後の方の生徒は教室からはみ出してしまいますが、講堂や体育館に座って試験を受けることになります。試験官は各教室の前と後ろに直立しています。

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 生徒は答案を青ペンで記入し、鉛筆は使用禁止です。修正液を使って書き直してもいけません。間違った部分は二重線で消して、正しい回答を空いたスペースに書きます。これは、生徒も採点者もあとから書き直すことができないようにするためです。

 試験が終わると、隔離された教室で三人の教師が採点します。一人では採点が偏る可能性があるため。三人が全部の回答を順に見るのです。特に高校三年の解答は、教育庁から派遣されてくるスーパーバイザーも採点者の一人となります。教師はすべての答案の採点が終わるまで、その部屋から出ることはできません。

 生徒は一枚目の答案の上部に名前を書きます。しかし、この部分の上にだけさらに厚い紙が貼られて、生徒の名前がわからないようになっています。採点者が生徒によって点のつけ方を変えないためです。しかし、教師はどうしたって教え子の字の癖は覚えているもので、完全に公正に採点しようとも、どこかに感情移入することは否めません。ですから普通は、ちがう学年で別の教科を教えている教師が採点します。

 私がおもしろいと書いたのは、このシステムの中には「教師も不正を働く」という前提があるからです。たぶんアラブ世界ではどの国でも同じように採点されているはずで、ペン使用も、修正液禁止も、スーパーバイザーの採点も、名前を隠すことも、不正を前提にしてつくられた対策というところが何とも人間くさい。

 なぜこれほどまでに厳しく公正を期するのか、大学に入学試験制度がある日本ではとても理解できないでしょう。しかし、一般にアラブ世界では、高校の卒業成績とはそれほど重要で、一生涯、履歴書にも載せるほどの数値なのです。

 さて、そうした不正を「見て見ぬふりをする」という妙技も、実は私は学びました。・・・とりあえず、正義の定義は一つと考えないことです。自分の信じる正義が、もしかしたら他人にはちっとも正義でない可能性もある、と疑ってみる。他人には決して通じない正義も世には往々にしてあり、さらに、理不尽にもきこえる他人の正義が、大きな目で見たら大義の範疇に入ることもある、と考えてみることです。しかし、自分勝手な正義を押し付けるさまざまな国民がいる中で、黙っていれば損ばかりのこともあります。黙っていて損をしたら自分がバカなのだと笑われたこともあります。反対に、自分の信じる正義を主張してみたら、あっという間に覆されて、人前で大恥をかいたことだってたくさんありました。

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 ある年、中学生だった長男を乗せて近所を運転していました。

 私たちの車が通りかかると、近くのレストランから馴染みの従業員が走り出てきました。・・・ひとさし指を立てて両腕を振り回しながら、夢中で車を追ってきました。

 その姿を見て驚いた私は、

「何か言いたいことがあるみたいよ。車を止めようか」と息子に訊きました。

 すると息子は「いいの、止めなくて」・・・

「あの人はね、僕が学校で一番をとったら、ちゃんと自分にご祝儀を持ってこいって叫んでいるんだよ」

 え~~~と私はびっくりしました。

「あの家族持ちの四十オヤジが、十三歳のあんたに物をねだっているの?」

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「恥ずかしくないのかしら」と怒る私に、長男は言いました。「だって、義務があるからね」

「あんたがいったいあの親父に何の義務があるわけ?」

 ばかだなあという顔で息子は私を見ます。

「一番をとった人間にはそういう義務があるって、パパはいつも言ってるよ」

 私はいつも、その習慣に慣れないのです。人の十倍も二十倍も努力・奮闘して結果を得た人間が、周囲の人々にご祝儀を配る―もらうのではなく、自分がお祝いを出すのです。それは自分に何かよいことが起こったときのアラブの慣例で、高校を卒業したときも、病気が治ったときも、子どもが生まれたときも、資格を取ったときなども同様です。自分の幸運に感謝して、周りの人にも幸福のお裾分けをするのです。

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 それに恥ずかしい話ではありますが、小さなご祝儀ですむ場合はあまり気にならないのに、大きなご祝儀の場合は、「これほどまでに?」と驚いてしまいます。長男が高校を卒業した時は、牛を一頭屠り、肉を近所に配りました。・・・長女が卒業した時は、高級チョコレートの大箱を大量に配りました。大量とは百何十という数で、私が箱の大きさや数に驚いて注文を躊躇していると、夫はそんな私の戸惑いを見越して、「きみは口を挟まないでくれ」と言いました。より大きな成果を得たものは、より大きく還元するという程度が私にはわからず、ただ驚いて金額ばかり気になってしまったのです。

加えて、その習慣をいつも個人的に考える癖が、私にはあります。ご祝儀を配る相手を、結果に直接関わった人や、近しい親族に限定して考えるのです。・・・ 

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 しかし、それらはすべて私の貧しい平等観に根ざしています。

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 ・・・そこが違うと夫は明言します。神から受けた恩恵を還元するのは、「神→自分→人々」という純粋な一方通行の行為で、自分の義務を果たすこと(幸福を分けること)が重要であり、お裾分けの相手を選定する必要などないというのです。

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 より能力のある人間は、誰よりも近道を行く―と効率を第一とする先進国では考えられています。結果に向かって一番の近道を通って行きたいのは、誰にとっても当然ながら、アラブ社会では常に、「より能力のある人間は、むしろ長い道を歩く」のは仕方がないと考えられています。

 それは、荷を背負うことができる人間だけに、神は荷を背負わせるからです。わずかでも他人と違う荷を背負わされたことを不平等と嘆いたり、批判したりする姿勢はあまりありません。たぶん過酷な自然環境が、非常に確固たる運命論を裏付けてきたからでしょう。また、時間と労力が直接に生産性に結びつく工業先進国とは、歩んできた歴史も国の成り立ちも違うからでしょう。