なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない (PHP文庫)

 久しぶりに森博嗣さんのエッセイを読みました。

 印象に残ったところです。

 

P94

 ところで、僕は固有名詞を覚えないことにしている。これは十代の頃からで、おかげで文系の科目では偏差値が最低ラインだった。また、国語では漢字が書けないし読めない。英語ではスペルを覚えられない。だから、受験のときは、数学と物理が頼みの綱だった。

 固有名詞や、漢字あるいはスペルを問われ、正確にそれらに答えることで人間の頭脳の優劣をつける教育が、長年続いてきたわけだが、シンギュラリティよりもまえに、まず人間相手のこの方式を改めた方が得策ではないだろうか。

 今は、試験のときにスマホは持ち込み不可であるけれど、近い将来、スマホは人間の内部に取り込まれ、その通信能力も記憶能力も計算能力も、そして検索能力も人間の能力の一部となるだろう。機械は既に人間に同化しようとしているのだ。そのうえで、いったい人間の能力とは何か、という点に是非拘っていただきたい。

 

P105

 僕から見ると、たしかに多くの人は、「死」や「死者」に拘っているように見える。・・・

 子供の頃からお墓参りをして、先祖に対して手を合わせてきた人は、やはり自分が死んだあとも、子孫に手を合わせてもらいたい、と考えるのだろうか。・・・僕には、やはり理屈のなさが致命的で、自分はそれを信じられないし、信じられないものに、労力や時間を使うことは無駄だと考えている。

 キリスト教を信じる人も、友人に多い。彼らは神の存在を信じているようだ。けっこう日本人よりも宗教に拘る。ちょっとしたことでも祈りを捧げる。スポーツ選手だって、十字を切る人が多い。「南無阿弥陀仏」と念じてフリーキックを蹴る選手はいないのだろうか(これは皮肉ではない、単なる疑問である)。

 

P216

 僕自身は・・・承認欲求というものが、人一倍弱い。他者に褒められても特に嬉しくないし、大勢に認められることの価値も全然わからない。ただ、自分が良い思いをしたいという欲求は強い。自分は自由でいたいし、自分が思うとおりのことがしたい。他者からとやかくいわれたくない。だから、そんな自分のために、できるかぎりのことをしている。僕が仕事をするのは、このためだ。賃金を得ることで、自分のためにそれが使える。仕事で、大勢のためにもなっているはずだが、そのこと自体には、特別な感情は持っていない。

 僕のようなタイプは、自分本位で我が儘で、放っておくと籠もりきりになり、協調性がなく、扱いにくい人間になるだろう。しかし、それでも社会に関わることはできるし、自分の幸せを追求するという意味では、普通である。

 極端な例を挙げよう。承認欲求が強い人は、人に褒められたいから働く。自分本位の人は、賃金が得られるから働く。これが極端な例で、実際ほとんどの人は、これらの中間にある。だから、褒められたいし、賃金もほしい、その両方のために働くのだろう。

 自分に拘っていることでも両者は同じである。その拘りを緩めることで、極端な理想が、現実的な中庸に寄ってくる。この効果を両方が得ることができる。だから、「そんなに拘らないで」というアドバイスが、どちら寄りの人間にも通じる。

 そして、もっと大事なことは、自分に拘ることをやめると、結果的に、他者に対して優しくなっている点である。これは、相対的なものだとは思うけれど、人が少し変わったようにも見えて、周囲にも、自分にも効果が広がるだろう。我慢をしたのではないし、効果を狙った作戦でもない。単に、拘ることをやめる、というだけなのだ。

 別の言葉でいうと、それが自由という形だから、ちょっと面白そうだし、新しそうだから、やってみました、という自然さがある。・・・

 子供が川に行ったら、水面に向けて石を投げる。これは、なにかの目的があってやっていることだろうか。誰かに見せようとしてやったのか。なにかを試そうとしたのか。それをすれば、誰かが褒めてくれるから?

 そうではない。ただ、ふと思いついて、やってみただけなのだ。面白そうだったから、思いつき、すぐに実行しただけだ。

 大人はそれをしなくなる。どうしてか。大人は、自身の自由さを忘れているからだ。無駄なことはしない、という暗黙のルールに縛られているからだ。いうなれば、大人というものに、拘っている状態だからである。

 

P240

 臨機応変とは、いうなれば、自分の思考の方向性を常に自在に確保することであり、指向性のない自由な発想が生まれるコンディションを維持することが、重要となる。それには、自分が何を見ているか、何を考えているか、という自覚がまず必要であり、そのうえで、そうではないものへ目を向けるコントロールがなされなければならない。この「自覚」と「制御」が、自由の基本である。なにもしないで素直でいれば自由に発想できる、というのは、若い時期の天才だけだろう。

 ・・・

 ある意味で、それは「落ち着かない」状況を招くだろう。意図的にきょろきょろし、わざと散漫な思考を行うことだからだ。しかし、そうでもしないと、いつまでも見てしまい、いつまでも同じことを考えてしまう。それが結局は、大部分を見逃し、狭い視野の思考となる。