物語の海を泳いで

物語の海を泳いで

 角田光代さんの、読書感想文を集めた本です。

 世の中にはほんとうにたくさん本がある・・・読んでも読んでもまだまだあると思うと、豊かだなぁと感じました。

 

P13

真に出会うと―アストリッド・リンドグレーン長くつ下のピッピ

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 何かの仕事で必要になって『長くつ下のピッピ』を読み返したとき、はっとした。幼いころ多くの本を読んだけれど、私が友だちに選んだのはピッピだったのではないかと思ったのである。この子の独自の信念、破天荒さ、独立心、独りよがり、野蛮さ、ぜんぶひっくるめて、だれよりもこの子と仲良くなりたい、この子のようになりたいと、幼き日に私は願ったのではないか。

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 大人になってもう一度出会うピッピは、相変わらず痛快だった。でも、昔は感じなかったかなしさをまとっていた。そのかなしさは、この子がずっとこのままである予感による。

 もし屋根裏で暮らすセーラや嫌われものの孤独なメアリーと出会っていたら、あるいはマーチ家の四姉妹と、孤児院から引き取られたアンと、いや、自由を求めて川を下るハックや、財宝さがしに赴くホーキンズ少年と「真に」出会っていれば、私はちゃんとできない部分をなんとかして修正し、成長しただろう。なぜなら彼ら彼女らはみんなかっこよく成長するから。

 ピッピは大人にならない。成長しない。よしんばピッピが大人になってもピッピ的な部分は失われることなく、それは決してピュアな美点ではなくて、大人の彼女はその部分によって苦労する。だって私がそうだもの。大人になった私がピッピに感じるかなしみは、「ピッピ的部分」にずっと苦労し今なお苦戦している私自身へのあわれみなんだと思う。・・・

 

P14

私は「真実」を読む―佐野洋子『100万回生きた猫』

 この絵本を読んだのは大人になってからだ。友人が誕生日プレゼントにくれたのである。

 度肝を抜かれた。なんて絵本だろうと思った。なぜ泣いているのかわからないまま、泣いた。・・・

 私が度肝を抜かれたのは、この絵本が絵本らしくないからだ。ねこも人も、わかりやすいかわいさで描かれていない。「きらい」というような否定の言葉がたくさん入っている。いろんな「死」が描かれている。・・・そうして結末は、決してわかりやすいわけではない。「なぜ、このねこはもう二度と生き返らなかったのか?」と読み手は考えなければならないし、その答えはそれぞれ違うだろう。

 けれども、最後の一行を読んだとき、わかるとか、わからないとか、そういうこととまったく関係なく、感電したような気がした。何に感電したかといえば、真実に、だ。真実がなんであるかもわからないのに、それにたしかに触れた、そのことだけはわかる。

 そのぜんぶが絵本らしくない、と思った。そのときの私は、絵本を、この本とは真逆のものだと思いこんでいたのだ。わかりやすくかわいらしくて、(よほど特殊なものでないかぎり)死や否定の言葉は書かれておらず、真実を突きつけてこない何かだと。この一冊は、その思いこみをぜんぶひっくり返した。

 そしてもうひとつ、この絵本がひっくり返すものがある。この絵本を読む以前、私はずっと、生まれ変わりたいと思っていた。ねこが何度もねこに生まれ変わるように、私も、私でなくともいいから人間に生まれ変わりたいと思っていた。心から愛する人に、何度でも会いたいと思っていた。それが幸福のひとつの概念だった。多くの人はそうなのではないかと思う。でも、本当にそれが幸福なのかと、この絵本は真っ正面から問うてきて、私は答えがよくわからなくなる。ずっと考え続けて、今もわからないままである。

 同様に、ここに描かれている「真実」の正体がなんであるのか、未だに私にはわからない。・・・私は幾度も幾度もこの本を開いているが、そのときの自分の年齢や、置かれた状況や、抱いている悩みによって、その真実の色合いも変わる。もしかしてここには、そうしたぜんぶの面を持つ真実が描かれているのかもしれない。

 そしてあのとき疑問に思ったこと。もし子どもだったら、理解できただろうか?の答えが、今ならわかる。きっとできないだろう。でも、おそらく感電する。それは大人の私だって同じだった。きちんと理解できてはいない。でも、すごく大きなものに触れたショックだけは残る。

 その後子どもは年を重ね続けながら、そのことの意味を考え続けることになる。大人にとっても、子どもにとっても、つまりこの絵本はそうした絵本なのだ。いや、真実とはそうしたものなのだ、とも思う。