頑張ることについて

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

「頑張る」ということについて、いろんな観点から・・・そうですよね〜と思いました。

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 そもそも頑張ったり我慢したりしないと良い仕事ができないという考えが間違っていると思う。努力で達成できることもなくはないけれど、世の中にある本当に良いものっていうのは、努力とか頑張りとかそういうゴリゴリした感じで作られたのではなく、もっと軽やかに自然な形で作られたものじゃないだろうか。自分の経験を振り返ってみてそう感じる。
 僕が何かに夢中になって、例えば受験勉強にハマって京大に入ったとか、プログラミングを勉強してウェブサービスを作ったとか、ギークハウスのアイデアを出してギークハウスを作ったとか、そういう何かがうまくいったとき、身を削って努力したり苦しんだという記憶はあまりない。
 主観的には、何かすごく面白いものを見つけてひたすら没入して、その世界に潜っていろいろ遊んでいたら、いつの間にかできていた、という感じだ。

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 あとまあ、頑張るとか能力があるとかそんなこと以前に、頑張れなくて能力がなくても人間は生きていていいと思うんだよね。人間ってそれくらい幅の広いものだし、そうでないとたくさんの人間がいる意味がない。
 世の中全てが実用的なものばっかりだとつまんないし、だめな部分とかくだらない部分とかを含めて人間だろう。ちゃんとしたものばかりの画一的な世界なんて退屈なので、もっとどうしようもないだめなものや、くだらなくて意味のないものが世界に増えて欲しい。

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 人間、何かすることがあるのは大切だ。頑張るというのも周りに強制されずに自発的にやるならいいと思う。そして頑張った人が報われるというシステムも社会を回すには必要だ。
 社会主義の国では頑張っても頑張らなくても得られるものが一緒だったけれど、それだと社会が停滞してしまった。みんなが自分の生活や人生を少しでも良くしたいって思って自分の責任で頑張ることで、社会全体が豊かになっていくっていうのはある。だから、頑張った人がお金を得たり豊かな生活をできるというのは良いことだ。
 だけど、僕の考えでは自己責任の割合は半分くらいなので、頑張った人は良い暮らしができるとしても、頑張れない人が最底辺の生活に落ちたり死んだりするべきじゃない。頑張れない人や頑張りたくない人でも健康で文化的な最低限度の生活は保証されるべきだ。・・・
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 僕自身が何かをやってうまくいったときにいつも思うのは、この成功は別に自分がすごかったからではなく、たまたまその場所に自分がいたからというだけにすぎない、ということだ。そこでも自己責任の割合は半分くらいに感じている。・・・
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 だから僕は、何かがうまくいってお金が入ったりしたときにはある程度を他人に分けるようにしている。
 まあ全部を人にあげてしまうほど聖人じゃないし無欲じゃないんだけど、でもそれを得たのは自分の責任だけではないという気持ちがあるので、たまたまお金を得られていない自分よりお金のない奴におごったり何かをあげたりする。