完璧に決まっていて、完璧に自由

古(いにしえ)の武術に学ぶ無意識のちから - 広大な潜在能力の世界にアクセスする“フロー”への入り口 - (ワニプラス)

 興味深かったところです。

 

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甲野 キリスト教を深く信仰している人が祈りを捧げていると、突然、霊感に打たれることがあると聞きます。禅でいえば見性したような感じでしょうか。そのとき信仰者はどう感じるのか。それは2つのタイプに分かれている気がします。「神はすべてわたしをつかって、わたしを通じて何かをされる、つまりわたしは神の僕である」という感動をもつ場合と、「わたしが何をしようと、神はすべてを追認してくださる」と感動する場合の2つです。まあキリスト教を信仰されている方には異論があるかもしれませんが、あくまでわたしがキリスト教徒の方とお話しして感じた印象です。

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 ・・・両者は正反対の関係性だといえます。でも、信仰において、この2つは同じようなものなんです。完全に神と一体化しているときのタイプが2つあるだけで、命令によって動くか、動いたことが自然に神の意志に叶っているかに過ぎない。神と一体化している以上、両者に大きな違いはなく同じことになるんです。

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 「これは、運命が決まっていることと、自由であることとの同時存在性と同じことではないか」と思いました。・・・

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 今は、・・・さらに究明しているところですが、その具体的な手がかりのひとつが「表の意識の自分」と「そうでない自分」を操るということです。

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 ・・・表以外の意識に、さらに深い自分がいるという感覚がありますから。このごろ、それをすごく感じるんです。

 

前野 わたしの考えている「受動意識仮説」は、まさに自由意志はないという説です。リベット博士による脳神経科学の実験によると、わたしたちがさまざまな物事を「自分で〇〇する」と自由意志によって決めていると実感する、その0.35秒くらい前に、無意識的な脳の神経活動があらかじめ意志決定を終えている。いろいろな実験で、それが検証されています。つまり、自由意志だと意識されることのほとんどは、脳の無意識的な活動が先行して決めている。・・・わたし自身は人間の自由意志は100%ないと考えています。

 

甲野 わたしも100%ないと思いますね。・・・

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 ・・・もちろん、「運命は変えられる」と主張している人の気持ちもわかります。「運命が決まっていて変えられないなら、何でも好き勝手に生きよう」という、昔、浄土真宗の教えを都合よく解釈して自由気ままに生きようとする「本願ぼこり」のような人間が現れましたが、ああいう人間が出ては困るということもあるからだと思います。

 ただ、わたしは「完璧に決まっている」と「完璧に自由」とが同時存在するという矛盾そのものを両立させようとしているのです。まあ、そのあたりは説くのがたいへん難しいのですが。

 

前野 そうですね。わたしの受動意識仮説も「運命論なのか?違うのか?」と聞かれることがあります。答えは、運命論であり、運命論でない。わたしたちは主観的には、つまり意識下では、自由意志で自己決定していると感じますから、運命が決まっているとは実感しません。一方で、脳神経科学の結果として、意識下における自由意志はないことが示されている。ということは、客観的に人間の脳や身体を見ると、何も自己決定をしていない。つまり、すべては物事の因果応報。運命は決まっているということになるんです。

 

甲野 決まっているからこそ安心で、すべてが上手くいっていると考えられます。演劇を観にいくのに「ストーリーはもう決まっているのだから、観ても意味がない」という人はいません。・・・つまり、どう味わうかだと思うんです。