野口聡一の全仕事術

宇宙飛行士 野口聡一の全仕事術 「究極のテレワーク」と困難を突破するコミュニケーション力

 訓練や経験を重ねても、こんな予想外の感覚があるんだな、など驚きつつ読みました。

 

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 2021年3月5日午前11時37分。わたしは女性飛行士のケイト・ルービンス(NASA)と国際宇宙ステーションから船外に通じるエアロックのハッチを開け、真空の世界へそっと飛び出した。それは6時間56分にわたる過酷な船外活動の始まりだった。

 わたしたちふたりには、ある重要なミッションが課せられていた。ひとつ前のクルーが取り組んだ船外活動のうち、成功しなかった新型太陽電池アレイ(巨大な電池パネル)を取り付ける土台の設置だ。サッカー場ぐらいの広さがある国際宇宙ステーションの一番先まで宇宙空間を移動し、本来なら物を取り付ける場所ではないところに新しい土台を巨大なボルトで取り付ける。手すりすらない場所。文字通り、手探りのミッションだった。

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 地上では、実際に使う部品で予備実験を行い、成功している。しかし、20年以上が経つ国際宇宙ステーションの外壁は経年劣化を起こし、地上実験で使えたはずの部品は微妙にサイズが合わず、前回のクルーはどうしても土台を設置することができなかった。果たして、今度はうまくいくのかどうか。迷いがなかったといえば、ウソになる。

 わたしたちはエアロックから手すりをたどりながら、およそ50mの距離を30分ほどかけて移動した。意外に知られていないことだが、船外活動の命綱の長さは25mしかない。そのため、国際宇宙ステーションの端まで行くには一本の命綱では足りず、途中で別の命綱に付け替えたりする必要があった。こうして苦労の末にたどり着いたのは、P6トラス。トンボのように羽を広げている太陽電池アレイのある巨大な構造物だ。・・・

 過去3度の船外活動でも経験したことのない、国際宇宙ステーションの最先端。そこは、想像を絶する世界だった。手すりが途絶え、その先は構造物が何もなく、真っ暗な闇。ヘッドライトを当てても、何も反射してこなかった。「おかしい、もう夜なのか」。いぶかしげに眼下を見ると、漆黒の闇に浮かぶ明るい地球が見える。やはり、いまは昼なのだ。

 国際宇宙ステーションの最先端を凝視すると、その先は光の届かない闇の中に溶け込んでいる。何ものの存在も認めない、虚無の世界がぽっかりと口を開けているような感覚に襲われた。4度目の船外活動にして、初めて抱いた感覚。頭では理解しているつもりだったのに、光の返ってこない世界と向き合ったときの言い知れぬ恐怖感。それはやはり、死の感覚だったように思う。

 つかまることのできる手すりのギリギリの端を指でつまみ、かろうじて体を支えた。もうひとつの手をぐいと伸ばし、土台を外壁に組み込むための巨大ボルトを特殊工具でめいっぱい締める作業に取りかかった。

 作業中も、闇の入り口に引き込まれそうな感覚に何度も襲われた。この指を離したら、わたしは死の世界に行ってしまう。そんな明確な意識があった。もはや生と死を隔てる境界線ではなく、わずかな境界点だった。わたしの指先だけが命の世界につながり、残りのわたしは死の世界に入り込もうとしている。

 実際には命綱が付いているからそんなことはないのだろうけれども、そのまま向こうの世界に飲まれたら、星のもくずとなって、誰にもみとられずに消え去ってしまうのかもしれない……。

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 ・・・やはり、地上のテストとは事情が違い、思うように取り付けができない。わたしは、地上の管制官と緊迫するやりとりを繰り返しながら、想定を超える力を出してボルトを締め付け、何とか取り付けを終えようと必死になっていた。

 そんなとき、問題の出来事は起きた。船外活動では、万が一に備え、宇宙服や手袋を定期的にチェックする決まりになっている。作業が始まっておよそ3時間半後。音声回路を通じ、パートナーのケイトの声が聞こえてきた。

「手袋に傷が付いたかもしれない」

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 ケイトによると、重層構造になっている手袋の表面にあるシリコン層に確かに傷が入っているという。・・・もし下層まで傷が走っていると、やがて手袋から空気漏れが起きる。手袋と宇宙服は一体になっているから、宇宙服前代の気圧が下がり、酸素不足を起こす。そうしたら酸素ボンベはあっという間に空になって、命の危険に直結する事態になる。

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 NASAはこうした事態を見越し、巨大なプールを使った船外活動の救出訓練を宇宙飛行士全員に受けさせている。・・・

 空気漏れが起きた宇宙飛行士はもう動けないと想定して、その宇宙飛行士を自分の体にくくり付け、一緒にエアロックまで戻る動作を繰り返す。その際、やりかけの作業を片付け、自分とパートナーの道具を一緒にしまい込んで、全て自分の体に固定してから移動しないといけない。エアロックまで戻り、ハッチを閉めるまでの制限時間は30分。・・・

 この訓練の手順を頭の中で思い出しながら、わたしはケイトの次の状況報告を待っていた。手持ちの作業を続けつつも、いつ管制官から「作業、ストップ!」「緊急避難してくれ」と指示がきてもスムーズに移行できるよう、じりじりする思いでその瞬間に備えた。

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 ケイトがよくよく手袋を確認したところ、幸いにも深刻な空気漏れの形跡は認められなかった。・・・ただし、・・・万が一の空気漏れに対応できるよう、・・・わたしはいつでもケイトを救出に行ける距離を保ちながら、重要ミッションである新型太陽電池アレイの土台づくりを完成させると、ふたりでエアロックに無事に戻ることができたのである。

 わたしは、この〝事件〟を思い起こしながら、あらためて胸に刻んだ教訓がある。

❝Be directive than be descriptive❞

 直訳すると「表現豊かに説明を加える(descriptive)よりも、直接的な指示を出せ(directive)」という意味になる。

 緊急事態のとき、対面できない相手には、直接的なメッセージでコミュニケーションをとった方がいい。「〇〇してください」とストレートに指示を出す。もし反対に、管制官が「手袋に穴が開いているなら空気が漏れる可能性がある。後ろに積んでいる酸素ボンベには限界があるから、最長7時間の想定時間は5時間ももたないかもしれない。残り時間が限られるかもしれないので急いでください」などといちいち状況を説明していたら、宇宙飛行士の命はいくつあっても足りないだろう。

 もしエアロックにすぐ戻る必要があるなら、管制官の命令は❝Go Back❞からスタートする。とにかく「戻れ」だ。そうすれば、船外活動中のわたしたちは「❝Go Back❞と命じられたのだから、ともかく撤退を始めよう」と判断し、動き出すことができる。必要な説明は後から加えたらいい。