内や外を越えた・・・

ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと (岩波現代文庫)

 いろいろと、印象に残ったところです。

 

P101

エンデ ……ジンと娼婦通りの少年の話(「手に手をとって、ふたりが道を……」、『鏡のなかの鏡』所収)。そこへ、宇宙飛行士がやってくる。この宇宙飛行士は、楽園を訪れたことがある。そこで少年が受ける教えとは、いったい何なのでしょう?少年はそこではじめて希望の喪失や絶望……、そう希望の喪失に直面することになるのです。

 でも、これは善いことでしょうか、悪いことでしょうか?わたしにはわからない。ジンが善人か悪人かということすら、わたしは知りません。

 というのも、ジン自身がこう問うでしょう。

「悪?なんです、それは?……それが何か、本当にわかる日がくれば、いつか坊ちゃまがわたしにも、教えてくれるかもしれませんな」とジンは少年に言う。「でも、本当に大きくなる、その日までは……」

 

―ふむ……。

 

エンデ つまり、わたしがここで思っていたことは、この子どもはひょっとしたら、未来の仏陀じゃないかということでした。かつての仏陀が体験しなかった、あるいは、体験せずにすんだかたちで、この子どもは悪と向かい合うことになるのじゃないかと。そして、この少年は、まず悪を自分のなかに受け入れなくてはいけない。それをまったく変えるために。

 少年はまだ、悪とはただの過ちだと思っています。悪さえなければ、それですべてはまるくおさまる。それを聞いて、ジンははじめて怒ります。

 ことは、そう簡単ではないのです。

 

P222

―子どもたちは、言葉に意味があることを知らないのに、その意味をいつの間にか学ぶのですね。

 

エンデ 子どもがどのようにして学ぶのか、これがわたしにとり、この世に存在する最大の謎なんです。大人たちが話している音に、何か意味があるとわかる。そして、「なおさら」のような、むずかしい語の意味を、子どもは本能的に把握することを学ぶ。

 

―「なおさら」の意味を説明するのはむずかしいですもの。

 

エンデ 子どもは、話せるまえに、理解できるんですね。

 近頃、わたしはこう思うんです。まるで間違っているかもしれないけれど、言葉に関して、わたしが禅の方向で考えていることは、みんな、この言語以前での理解、その理解の状態を再び得ようとする、そういうことなのではないかって気がします。つまり、もはや語に執着するのではなく、ちょうどまだ言葉が話せない子どもが、語に意味があることを理解するのを学ぶように。

 この、すべての言葉に先立つ、言葉なしで理解できること、これこそが実は本当のポイントなんです。そこにはもうちがいがありませんから。禅の高僧がいつも言うように、そこには内と外のちがいがない。客観的、主観的というちがいがありません。ちがいというものはすべてなくなります。この本能的理解は外でも内でもありませんから。それは第三のもの、内や外を越えたものなのです。

 ・・・

 旧約聖書でも、はじめに書かれていることは、

「光あれ、と、神は言われた」

つまり、神が初めに行ったのは、話すことでした。そして、話すことは、さきほどの意味で言葉なしで話すことですが、それは、そもそも精神の原理なのだと思う。それで、

「精神は語り、心は泣き、知覚は笑う」と言われるのですね。

 だから、たとえば子どもたちはよく笑う。子どもたちはとても感覚的な存在だからです。子どもたちにとっては、感覚が中心なんです。壁にハエがとまっているのを見ただけでも、子どもたちは笑うことができる。なんでもないことなのに、くだらない冗談にも、大笑いできます。

 人間の知覚というものは、いつでも笑えるようにできているからです。人間の心は、いつも泣くことができる。だから悲劇も喜劇も、つまるところ等価値なんですね。どちらも正しいのですから。感覚の立場から世界を見れば、世界は滑稽です。わたしを笑わせる。精神の立場から世界を見れば、それは崇高であり、語り、泣くわけです。そのどちらも真実です。・・・

 ・・・

―ここで再度問いたいのですが、言語とはどこからくるのでしょう?どこか神秘の深みからでしょうか?

 

エンデ 言語は、精神世界の、どこか深みからやってくる。どの新しい宗教も、そのように説いていると思います。つまり、この目に見える世界は、沢山の段階があるなかで、最後の、いわば一番下の表現だと、あるエネルギー、あるいはある言語の、一番密度が高い表現だというわけです。

 わたしたちはこの世で、いわば一番密度が高いかたちで生きているわけです。しかし、その上には、たとえばカバラでは九段階ある。九つの世界がその上にあって、みんな異なるのです。特にこれほど密度が高くない。透過性がもっとある。

 こうも言いますね―目に見える創造は、神の道の終わりだ、と。

 

P277

エンデ ・・・昔の賢人たちが、

「生と死、それは一つ。対立するものでは決してない」

と語ったことが理解できます。それは一つなんです。一つの途切れない存在のプロセス。存在のなかのプロセス。ただ外的に観るときだけ、それは時間的な前後なんです。

 外的には、わたしたちは時間的にしか知覚できません。わたしたちはいつもその時々の形態を知覚する―今はただ種だけ、今は茎と葉、今は花、というように。しかし、実はみんな同じ一つの植物です。それは一つの全体なんです。

 ・・・

 わたしたちは時間に制限された思考のなかに沈んでしまった。この小さな花を時を超えて考えること、それだけのことをまったく忘れてしまった。それはもうずいぶんむずかしいことになってしまった。わたしたちは子どものときからそのように育てられるからだって、そう言いたいほどです。すべてを原因・結果の前後関係で考えるように育てられ、因果関係の外にある「同時」ではありません。

 植物が一つの全体的な循環、一つのプロセスであることをただ想像しようとするだけで、頭脳の神経が切れてしまう。植物は一つのプロセスです。しかしこのプロセスにははっきりとした秩序がある。つまり、無秩序な混乱したプロセスではなく、きっちりとした厳密なプロセスなのです。ひとつひとつの植物がそれぞれプロセスなんです。このプロセス全体を見なければいけない。そうすれば、実はそこにもう、最初の手掛かりがある。それはこの世界に住む存在すべてに言えることですから。……