ただしい暮らし、なんてなかった。

ただしい暮らし、なんてなかった。

 こちらも大平一枝さんの本、興味深く読みました。

 

P132

 娘が大学一年生のとき、春休みを使って二カ月半の泊まり込みの演劇ワークショップに参加した。それだけ長く親元を離れるのは初めてだ。参加者は社会人が中心で、自分の表現力の稚拙さに、乏しさに落ち込むことも多々あったらしい。

 帰宅後、こんなことをつぶやいていた。

「自分の許容量のなさは、傲りからきてたって気づいたんだ」

 わがまま放題に育った人間でも、外に出るとこんなことを言い出すようになるのかと驚いた。うんうんそれで?と、平静を装いながら聞くと、あらましはこうだ。

 どうしても苦手な講師がいて、なぜほかの人は気にならないのだろう、自分はなんて心が狭いんだろうと悩んでいた。あるとき二十七歳の参加者に、元気がないねと声をかけられた。思いきって正直に自分のとまどいを話すと、彼は言った。

「僕は君のように大学で、美術や芸術も学んでないし、演劇に関してなにも知らない。だから自分よりものを知っている人に教えてもらえる、それだけでありがたいなあって思っているよ」

 娘は、はっとした。自分は演劇を知っているようなつもりになっていて、あの人のこの言い方が嫌い、この人は苦手と上からの目線で、無意識に区別をつけていた。自分はものを知らないという謙虚さがなかったから、許容量が小さくて、受け付けられなかったのだと。最後に彼女は、こう言った。

「ねえママ。傲りは許容量の邪魔をするね」

〝自分はそんなことぐらい知っている〟と思っている人と、〝自分はなにも知らない〟と思っている人とでは、同じ知識を得ても受け止め方の深度が変わる。

 どんなコミュニティにも自分と水の合わない人、苦手なタイプの人はいるものだ。その原因は本当に相手だけにあるのだろうか―。思わず自問自答をする。

 要するに、謙虚でない人は損をするという話である。