いろんな人の、いろんな人生に、いろんなことを感じました。
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所帯じみたものが嫌いで、美しいものに囲まれた世界が好きな、自分のスタイルを崩さない人だった。会社で出会ったとき、周りから口々に〝あの人には気をつけたほうがいい〟と助言されるほど女性遍歴が賑やかな四八歳独身。飲み会では後輩に支払いをさせない。
彼女の言葉を借りると、九ヵ月前に亡くなった夫は「美意識が服を着て歩いているような。ハードボイルドな人」だった。
二年間の交際、六年間の結婚生活で、泣いたのを一度だけ見たことがある。
「理不尽な人事で退職に追い込まれた後輩を〝守りきれなかった〟と。いつも明るく強い人なのですが、そのときだけは帰宅するなり崩れ落ちるようで、肩が震えていました」
前職で成果を出し、後進を育成したいと彼女の勤め先に中途入社してきた。
いっぽう彼女は、幼いときから自分に自信がなく、積極的なコミュニケーションや、特定の人に深入りするのが苦手だった。
「自己肯定感が低く、相手の反応が気になりすぎちゃってうまく話せないんですよね。男性とふたりでご飯というのもすごく苦手でした」
偶然同じ岩手出身ということで話が弾み、三七歳で交際に踏み出したのは、〝彼だと疲れない〟という不思議な心地よさからである。
「気楽な同郷のおじさんという感じで会っていたので、緊張しなくてすんだのかも」
前述のように、美意識や生活感についてはこだわりが強い。「家が汚れるので料理はしなくていい」という志向で、毎晩「今日は何を食べたい?」と聞かれた。酒に目がない彼は、飲みたいものに合わせて店を選ぶ。そんなマイペースなふるまいも、苦ではなかったという。
「お互い初婚で、いい歳なので。そりゃあこだわりもそれぞれにあるよなと。この人の素敵な雰囲気をそのこだわりが作っているのなら、それでいいじゃないって思えたのです」
彼と付き合うまで、彼女は家で酒を飲んだことがほとんどない。ワイン、日本酒、ビール。料理に合わせて酒を替えるのも楽しく、とりわけワインの奥深さに魅了された。
「実家はしつけに厳しく、食事は緊張感に満ちていた。ところが彼とは、毎晩二時間くらい飲みながらずーっとおしゃべりをしている。食事にはこんな楽しみがあったのかと」
元来料理好きな彼女が、家で作るようになったきっかけは胃腸炎で寝込んだ彼に作ってあげた、なんということもない野菜スープだ。
「あーおいしいなあって、体はフラフラなのにおかわりをしたんです」
以来、徐々に家での晩酌と食事が増えていった。「ふたりとも働いているのだから、自分のために手間を取らせるのは申し訳ない」という理由もあったのだと、ずいぶん経ってから聞いた。
「わがままで自分勝手だけど、実は繊細で傷つきやすい。似た者同士でもあったんです。
玉ねぎを飴色になるまで炒めて作るキッシュ、クリームシチュー、豚汁、オムライス、麻婆茄子。いつもおいしいおいしいとニコニコしながら平らげる。
そんな日々を重ねることで、外で食べていた頃とは違う絆の深さが少しずつ確実に増していくのを実感した。
「食卓で同じものを食べるのを繰り返して、人って家族になっていくんですね」
だが結婚三年目。突然、闘病が始まる。酒とタバコが大好きな彼の肝臓と肺が、悲鳴を上げだしたのだ。
・・・医者は厳しい表情で明言した。
「お酒をやめてって言ったのにやめてないよね。このまま続けたら、一年もたないよ」
持病の突発性間質性肺炎に肝硬変を併発していると聞かされたその日から、苦しいバトルが始まる。
「一緒にお酒をやめよう」と言うと、同情されるのが嫌いな彼は強く否定する。
「俺はお前が酒飲んで笑ってるのを見るのが好きなんだ。だから俺はやめてもお前はやめるな」
しぶしぶ、彼の傍らでひとり飲むワインはなんの味もしなかった。
長年の飲酒の習慣がそう簡単に断てるわけもない。隠れて彼が飲んでいるのを見つけるたびに喧嘩になり、泣きながらシンクにボトルの中身を捨てた。
どんなに泣いて止めても、酒とタバコをやめない。
・・・
二〇二一年三月。彼女が出した結論は、「彼の生きたいように生きる意思を尊重する」。
・・・
それから亡くなる七月まで毎晩ワインを飲み、ベランダでタバコを吸った。
交際しているときから、出かけるときにおしゃれをすると「いいね、似合うよ!」とほめてくれた。「俺に不満があったら溜め込まず、何でも言っていいんだよ」「どんどん自由にやりたいことをやって言いたいことを言い合って、仲良く暮らそう」ともよく言っていた。
バトルの日々が嘘のように、そんな以前の彼が戻ってきた。体重も飲める量も減る一方だったが、毎日晩酌の時間は笑いあった。
「彼と付き合って、私は初めて自信を持てるようになったんです。そして自分の思うように自由に生きること、自分の気持ちを大事にすることを学びました」
その学びは最後まで続いた。
かつて、近所のワインショップでたまたまボジョレーの、ある自然派ワインを薦められた。
「小さなワイナリーのもので、この作り手はもうワインを造ってないんですよ。だからこれがラストヴィンテージです」と。
早速飲んでみると、イチゴとバラのリキュールに土とスパイスを溶かしたような、エレガントで複雑で驚くほどピュアな味わいだった。追加で三本購入し、「最後にふたりで飲むワインはこれにしよう」と約束した。
・・・
・・・最後にふたりで飲もうと約束していたあのワインを霊安室で抜栓し、彼の唇に含ませた後、皆でグラスを傾けた。
・・・
すっかりワインが趣味になり、「コレクターにならないように」と自分を戒めながら、八本入りのワインセラーを愛用。・・・土日は昼過ぎから簡単なつまみとお気に入りのワインで、写真に収まった彼と乾杯を。
「でもひとりだと何を作っても飲んでも、いまひとつおいしくないんですよネ」
つぶやきとともに彼女は二杯目を飲み干す。取材が終わったらぜひご一緒にとキッシュにナイフを入れた。玉ねぎの甘さがバター風味の生地に調和した、感嘆する旨さだった。
「このキッシュ、夫も大好きで。……あ、亡くなってからこれ作るの、今日が初めてです」
こんな話できすぎでしょうと言われそうですが、と彼女は例の約束のワイン名を教えてくれた。
「〝旅立つ前の最後の一杯〟というんです」
残るは二本。一本は自分の最期のためにとっておくそうだ。