それでも食べて生きてゆく 東京の台所

 立派な方だなと、驚きつつ読みました。

 

P38

 ヤングケアラーの問題は昨今よく取り上げられているが、精神疾患の親を持つ子の問題は置き去りにされているな―。一八歳まで、躁うつ病の母と、家事や働くことに関心を持てない祖母の元で育ったという彼女と会って、私は痛感した。父は、生後半年で離婚したので顔を知らないとのこと。

 家の収入は、祖母の年金と母の障害年金生活保護が全てだった。

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「いつもお金がないので、物欲もないんですよね。一瞬〝いいな〟って憧れても、〝でもな〟が必ず入る。望んでも叶わないのがわかっているので。物欲が生まれたのって、じつはごく最近。成人してからなんです」

 愚痴っぽくも、恨みがましくもない。淡々と達観したような口調が、年齢より落ち着きを感じさせる。

「病気だから母だけが悪いわけではない。それと私は学校が楽しかったので。部活や友達に救われていました」

 学校では忘れたかったので、家庭のことは話していない。それがよかった。普通の中学生、高校生として明るく振る舞えた。ただ家では、母が暴れて物を壊したり壁に穴を開けたり、薬の過剰摂取や自殺未遂で入院したときなど「このまま電車に飛び込んだら楽かなって思ったことは一、二回あります」。

 高校を卒業したら絶対にこの町を出る。それだけを心の支えにのりきった。

「母の病名が確定したのは小六のときでした。そのとき、絶対に家を出よう、そうしなかったら母につきっきりの人生になってしまう。高校卒業までに、絶対学費と資金を貯めようと決めました。貯められなかったら私の負けだと」

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「専門学校の学費や上京資金を貯め、ほぼ目処がついていた卒業目前の二月。母が突然、お金を持って男の人と家を出ていってしまって。新生活準備のため控えめにしていた卒業式後のバイトもフルで入れて、なんとかしのぎました。保証人がいないので東京のアパートは三月二〇日まで決まらず、もちろん家財道具もありませんでした」

 生活保護を通して家庭の状況を知っていた市役所の職員が気にかけ、何度も「大丈夫ですか」と連絡をくれた。正直に話すと、東京の不動産屋との交渉や引っ越しの手配、リサイクルの洗濯機や冷蔵庫、家具まで手配した。「業務外なので本当はいけないのですが」と言いながら。

 小さな古いアパートに、やけに大きな冷蔵庫やこたつ、ベッドが揃っていたのはそういうわけだったのか。

「本当に助けられました。あれ以降、実家に帰っていないので、お礼も言えてないのですが……」

 週三、四回、ドラッグストアや学内の授業チューターのバイトで稼ぎ、学校の成績優秀者への給付金と奨学金で暮らしてきた。

「ある日、専門学校の友だちに親のことを話したら、〝すごい〟って明るく言われて、〝え?〟って私の方がびっくりしたんです」

 そんなすごい環境でよくここまで来たね。

 本に書いたら印税で生活できるよ!

 お母さんの話がいちいちすごすぎて、おもしろい。

 しんみりされたり同情されるより、笑い飛ばしてくれる方が楽だという。東京では、私の家のことを誰も知らない。それが自由でありがたかったと彼女は振り返る。

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 二年生の五月。

「新しい彼氏と神奈川で入籍したから」と、母から一方的に連絡が来た。名字を変えるとなると、奨学金の申請書類から学校や不動産関係の書類まですべて出し直さねばならない。相手の男性も同じ病気で無職と聞き、ますます不安は募る。

 嫌だと言うと、「妊娠したから。産むから」。

 呆然としながら過ごしていた三週間後、「離婚した」。翌週には「流産した」。

 また別の日、母が自殺未遂をして警察に迎えに行き、アパートに泊めたこともある。

 二〇歳まではアパートも奨学金もすべての契約に、保証人をたてなければならない。だから誕生日を一日千秋の思いで待った。成人した日、ああもうこれで母に「ノー」をはっきり言えると、初めて深く息を吸えた気がした。魂が解放された日である。

 まもなく卒業し、春からは晴れてメーカーで傘のデザイナーになる。

 就活の過程で、学校の講師から何度尋ねられてもなかなか答えられず、苦労した問いがあった。

「なんのデザインをしたいのかという質問です。デザイナーにもいろいろあるので。私は何が好きで、どのジャンルに進みたいのか。友達はグラフィックやら商品のロゴパッケージやら希望を言えるんだけど、私は言えなかった。成人して、自分で稼いだお金を初めて全部、自分で使える。それだけで幸せで、自由で、ありがたくて、その先の夢が自分の中からなかなか湧き出てこなかったんです。今のこの暮らし自体が、私にとっては夢のようなものだから」