沈没ハウス

愛と家族を探して

 映画「沈没家族」の監督、加納土さんへのインタビュー、印象に残りました。

 

P66

 ・・・二〇年以上前から東京・東中野のアパートでは非婚シングルマザーと複数人の大人たちによる共同保育がすでに行われていたという噂も耳にした。共同保育が行われていたアパートは「沈没ハウス」と呼ばれており、そこで育った子どもが成人して、自身の生い立ちを辿るドキュメンタリー映画を製作したらしいというところまでは聞いていた。

 ・・・

 私は加納監督に、聞いてみたいことがあった。決して「普通」とは言えない沈没ハウスで育った加納監督が自身の生い立ちについてどのように考えているのかということである。私がオルタナティブな家族のかたちを取材した記事を公開すると、決まって「子どもがいないならいいと思うけど」「子どもが可哀想だ」といった批判を目にした。私自身は、どんなに恵まれた「普通」の家庭で育ったとしたって子どもは鬱屈した幼少期を過ごす可能性は十二分にあると思っている。・・・けれど、取材したオルタナティブな家族の実践者たちの子どもはまだ小さく、本人の意思を直接尋ねることはできずにいた。・・・

 ・・・

―大学の卒業制作で、「沈没家族」を主題にしたドキュメンタリーを制作しようと思ったのはなぜですか?

 

 二〇一四年、僕の二〇歳の誕生日に開かれた「沈没同窓会」がきっかけですね。(東京の)高尾にある合宿所のような場所に約三〇人が十数年ぶりに集まって、スライドショーを見たり、みんなで酒を飲んで騒いだりしました。

 沈没ハウスのことは覚えていたんですが、顔も名前も知らない人が「土はカボチャが嫌いでさー、食わせるの大変だったよ」などと口々に僕の話をしていることは、何だかとても不思議な感覚で……。

 彼らや自分の育った「沈没」についてもっと知りたいという強い欲求があったので、卒業制作のドキュメンタリーの主題にしようと。

 

沈没ハウスでは、どんな風に生活や子育てしていたのですか?

 

 カオスでしたよ(笑)。建物は三階建てで、一階が広いリビングとトイレとお風呂があって、二階に二部屋、三階に三部屋あって、大きさもまちまち。それぞれの部屋に母子で住んだり、独身の男性が住んだり、行く当てがなくて困っている人が居候としてリビングで雑魚寝していたりの共同生活でした。

 ・・・

 シングルマザーを支援する側と支援される側の関係ではなく、各々が思うように接していいっていうのが特徴だったんじゃないかと思います。

 

―そもそも、沈没ハウスでの共同生活はどういったきっかけで始められたんでしたっけ?

 

 母は「子どもはたくさんの大人の中で育ったほうがいい」という考えを持っていました。それに彼女自身の感覚として、両親二人だけで子育てするのは無理だと思っていたのもあって、共同で保育をする方向に進んでいったんだと思います。

 最初は山くん(父)も巻き込んで共同保育をするつもりだったみたいなんですが、山くんは乗り気ではなかったし、母が山くんと反りが合わなかったこともあって、離れて住もうということになったみたいです。

 

―その頃はインターネットも今ほど普及していないですし、一緒に子育てする人を集めるのは大変だったんじゃないですか?

 

 そうですね。・・・まずは東中野にある上野原住宅というアパートに僕と母の二人で住んで、シフト制で共同保育をするところから始めました。

 母は「だめ庵」というコミュニティやシェアハウス「ラスタ庵」といった、面白い人たちが集う場所にチラシを配ったり貼ったりして、界隈の人が集まりました。これが映画の冒頭ですね。そこから派生して、だめ連界隈以外の人も多く参加するようになりました。・・・そこで大人数で住める家を探して、見つかったのが三階建ての「沈没ハウス」でした。

 ・・・

―映画の中で、一ヵ月間学校に行けなくなったというシーンもありましたよね。あのときは何かつらいことがあったのでしょうか。

 

 つらかったわけではないんですけど、学校と沈没ハウスのギャップに適応できなくなったんですよね。小学校二年生の夏休みに母親と二人で東京から沖縄までテント旅をしたんですけれど、自由なヒッピー生活と相変わらずカオスな沈没ハウスは、整然とした学校からあまりに乖離していて、「ちょっと無理だ」って(笑)。

 ただ、それは共同保育がダメだったとか、沈没ハウスがもっとマトモだったらよかったとかそういう話ではないんです。他の子だったら合わなかったかもしれないですけど、僕も入居していた他の女の子もすくすく育っていますし、沈没ハウスにネガティブな気持ちはないですね。

 ・・・

 母親は・・・撮っていくなかでサバイブするためにやっていた部分も大きいんだということがわかりました。

 母のスタンスとして「楽しむこと=生き残ること」という感覚があって、その延長線上に共同保育もあったようです。それに、もう少し物理的な意味で言えば、父と離れて暮らすようになって二人きりになったときは本当に貧しかったので、そんな状況で「沈没家族」のチラシを撒いて誰も来なかったら、僕と母はどうなっていたかわからなかったですよね。その事実を知ったら、母にも保育人たちにも感謝の念がますます強くなりました。保育人の中にも「どうせ結婚できないしさ」と思っている独身の人とか、精神的に調子の悪い人とかいろんな人がいましたが、沈没ハウスのリビングに集まれば、子どもに会えて、子どもも甘えてくれる。彼らにとっても救われた場所だったと思うし、ほんの一時期だけ成立した奇跡的な場所だったんだなと改めて思いましたね。

 

―新しい家族や保育のかたちには「子どもが可哀想だ」という批判が集まることもあります。加納さんはいわば新しい保育のあり方で育てられた当事者だと思うのですが、そういった社会の風潮について、一個人として、どう考えていますか?

 

 雑な言葉ですけど、気持ち悪いですよね(笑)。

 わかりやすい例だと「選択的夫婦別姓」とかも、どうして人が選ぶものを尊重できないんだろうなと思います。他人の選択がその人にどんな嫌な影響を及ぼすのかなというのは率直に不思議に思いますけどね。

 当時者として言わせてもらうと、沈没ハウスで育ったらみんながみんな楽しかったと思える保証はないですよ。一方で、核家族的な「普通」の家族のかたちが窮屈になっちゃう人もいっぱいいるので、いろんなやり方があっていいと思うし、それは何か一律に決めつける必要はないと思っています。少なくとも、たくさんの大人に囲まれて育った幼少期は、僕にとっては人生の糧です。

 それに、突き詰めれば、・・・子どもは親に従わざるを得ないという時点で、「デフォルトで可哀想」なので、保育の仕方だけを切り取って可哀想っていうのはどうなのかなと思いますね。

 ・・・

―あえて聞きたいのですが、加納さんにとって「家族」とは何でしょう?

 

「家族」という概念は、僕の中にはないですね。母も、山くんも、沈没ハウスの保育人たちも楽しい思い出を共有できた大切な存在ですが、「この人は僕の家族だ」と思った人は今までの人生で一人もいないかもしれません。

 僕は家族だと思える人がいないままに育ちましたけど、楽しい思い出を糧に生きているので、「家族」ってなくてもいいんじゃないかなと思うんですよね。そろそろ死語になるんじゃないかな(笑)。

 もちろん、家族の絆や「私の家族はこれだ」とはっきり言える人はリスペクトしますけど、そうでないからといって気の毒がられるのは寂しいというか。「家族」という概念がわからないことも、新しい家族のかたちなのかなって思います。