先日、「あさいち」でも取り上げられていた、台所を通した一人ひとりの物語。
いろんな思いが浮かんで流れていきました。
P21
「息子のアレルギーは命に関わるほど症状が強いので、ほぼ外食はしません。食べられるお店を探すのが大変なので。学校は試行錯誤を経て、今は息子だけお弁当を持参しています」
穏やかな表情で淡々と語る。乳児の頃は、アトピーで顔の皮膚が荒れる息子を前に、なるべく薬に頼らず食事療法などで頑張っていた。
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夫と家事や育児を分担している。ともにアレルギー対応の料理にとりくむことで、食生活が格段にゆたかになり、台所に立つのが億劫でなくなったという。
「夫婦でフリーランスの在宅仕事ですが、前はギリギリまで仕事をして、〝さ、ごはんを作ろうか〟と重い腰を上げる感じでした。私はたばこも吸っていましたし、夫婦で不摂生だった。今は、羽釜で毎日ごはんを炊いて、日常のなかにあたりまえに料理がある。米粉のパン粉でコロッケやエビフライを揚げるとサックサクでおいしいんですよ。小麦粉のパン粉よりキメが細かいから。あれこれ試したり工夫したりするのは苦じゃないし、楽しいです。息子のおかげですね」
三二歳で結婚。三五歳で長男を、三八歳で長女を出産した。
長女はダウン症である。生まれる前からその可能性があると言われていた。現実を受け止めるのに自分の気持ちが追いつかず苦しんでいたとき、いち早く夫は、ダウン症という先天性心疾患を理解しようと、いろんな本を読んだり話を聞きに行ったりして勉強し、妻の背中を押した。
「夫はすごく優しい人です。そりゃあ時にはムカつくこともあるけれど、子育てのパートナーなので、お互いに心身ともに健やかに、もう少し続く子育てを一緒に頑張ろう、オー!という感じです」
こう語れるまでに、どれほどの葛藤があったろう。
「子育ては、〝そんなの聞いてないよ〟の連続でした。親も遠方で頼れませんし。でも、私たちは自分たちだけで頑張るのはやめようと。近くの友達にたくさん頼ってきました。そこに大きく救われ、なんとかやってこれました」
長男が救急車で運ばれたり、長女の入退院も頻繁だ。その間、「ちょっと子どもを見てて」「預かって」と、気軽に頼める友達がたくさんいる。
取材している最中も、玄関ではなく庭からパパ友と子どもたちがわらわらとやって来た。
パパ友が「スーパー行くから」と言う。子どもは我が家のように大人の脇をすり抜けて靴を脱ぎ、部屋に上がる。
「うん、テレビ見させとくね」と住人の彼女。パパ友「午後どうするの」。彼女「外に連れて行ってほしいかも」。パパ友「オッケー、適当に連れてくわ」。
保育園時代からの保護者仲間だという。
新型コロナウイルスで休校しているので、どの家も、子どもたちをもてあましているようだ。預かったり、預けたり。ご近所同士でゆるく、気負わないつきあいが続いている。結局この日、取材の間だけで、アポ無しで彼女の家に子ども三人と大人ひとりが遊びに訪れた。
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「これほどのアレルギー児童は受け入れたことがない」と小学校入学のときに教師に言われた。前述のようにひとりだけ弁当を持参している。
一年前、親子で『ドラえもん』の映画を見に行き、涙もろい彼女はついぼろぼろと泣いた。すると長男に不思議そうな顔で「どうして泣いたの?」と聞かれた。
「感動したんだ!」
「えー、カンドーってどういう感じ?僕、わっかんないなー。いいなって思うことあるけど、いつも泣くほどじゃないから」
以来、テレビですぐ泣く母を見ては「なに、いまカンドーしたの?それ、カンドー?」と、興味津々で聞く。
ある日の夕食後。洗い物をしていると、長男が言った。
「あ、そういえば僕、カンドーしたことあった」
「え、いついつ?」
「学校でお弁当のふた開けるとき、カンドーして泣きそうになるの。お母ちゃん、いつもありがとね」
突然のありがとうに驚きながら、彼女は恐る恐る聞き返した。
「うん、ありがとう。……先生に、感謝の気持ちを伝えるように言われたの?」
「ちがうよ。お母ちゃん頑張ってるなーって思ったらいつも泣きそうになるの。今日もだよ。これ、カンドーだよね?」
人は出産したからといって急に親になれるわけではないと私は思う。あっちにごつん、こっちにごつんと頭をぶつけながら、悩んだり怒ったり落ち込んだり笑ったりしながら、たとえば各駅停車でだんだん本物の母になっていくようなものではないかと。
彼女は毎日アレルギーに配慮したごはんを作り、夫と、ふたりの子どもにたくさんの愛情を与えているけれど、息子からたくさんのものを与えられてもいる。いや、息子だけではない。娘や夫からも。そうやって一歩ずつ、素敵なお母さんになっている真っ最中なのだ。