「料理と利他」に続き、こちらも面白かったです。
P28
中島 『贈与論』という、マルセル・モースという人が百年くらい前に書いた本がありまして、「利他」とか「贈与」とかの問題を考える際の、古典になっているものです。彼は、贈与というものを生み出すためには、「与えること」と「受け取ること」と、それからそれをまた「誰かに渡すこと」が循環していかないといけないというふうに言っています。そしてよくよく読むと、「受け取ること」がとっても重要で、そして私たちはすでに与えられているということを言っているんですね。
おもしろかったのは、この本に、インドの「マハーバーラタ」というお話が出てくるのですが、そのなかに、大地が歌いはじめるところがあるんです。大地は「私を受け取ってください」と歌いはじめる。そこをモースは引用していて、これが重要なんだと言うんです。
つまり私たちは、大変多くのものを、大地とかお天道様とか、そういうものからすでに受け取っている。ただし、そのことに気づいていないんですよね。大地の歌が聞こえていない。その大地の歌に耳をすませたとき、つまり受け取っていることに気づいたときに、受け取ったものを誰かに受け渡さないといけないと。それによって「利他」や「贈与」というのが、どんどん展開していくということを言っています。
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土井 おーなるほど、利他は循環しているんですか。おもしろいなあと思うのは、それが美の問題とつながることです。
井戸茶碗の大名物、喜左衛門井戸という茶碗があります。現代人には到底つくれないと言われているものです。そういうものに出会ったとき、その美しさはどこからきたのか、なぜ生まれたのか、と考えざるをえない。その「美の不思議」を、柳宗悦は考えつづけていたと思うんですね。
『美の法門』では、それを美醜の区別がない世界、美しいものしかない世界に生まれたものと言うのです。まさに作為のない世界、いい格好しようという自我がない世界、そうい時代があった。そのときには、すべてが美しいもので、すべてが利他だった。利他であるゆえに美しい。人間の行為のすべてが、自然のためとか、人のためとか、未来のためで、まさか自分が何か得ようとするような気持ちがない世界、利他しかない世界というのが、あったんじゃないかと思うんですよね。
中島 そうですね。柳宗悦の晩年に至った境地というのが、美醜を超えるということだったんですよね。この世の中に、醜いものと美しいものの区別すらないと。私の研究室に佐々風太さんという大学院生がいて、彼は民藝について研究しているんですけども、柳が晩年に非常に惹かれたのは、古丹波の世界であることを教えてくれました。窯のなかで、灰がバッとかかり、勝手に溶けて釉になる。ふつうちょっと醜いというふうに見えるようなもの、自然についた荒々しいもののなかに、美しさを見出す。
先生がおっしゃったように、自分の作為を超えた世界には、まさに「利他」しかないような世界が巡っているというところに、おそらく柳は到達したんだろうなと、私も思いますね。
P64
中島 ・・・僕も「所有」という問題をよく考えるんです。ヒンディー語には、haveという英語にあたる単語がないんですよ。何々を「持っている」という単語がない。で、それをどう言うかというと、「私のそばにある」という言い方をするんです。「私はこの本を持っている」じゃなくて、「私のそばに本がある」というのが、一応「所有」を表してるんです。
つまり、今これはたまたま私のそばにあるだけで、私自身の所有物だという感覚が、そもそもない。それがヒンディー語の言語構造のなかに表れているものです。それはそうですよね。私が死ぬと、この本は誰か別の方の元に、古本屋さんで売られたりするわけで、たまたま今、私のそばにあるものとしか言いようがない。こういう考え方って、非常に重要だなぁと思っています。
土井 「利他」というのは本当に、今の時代に必要な、何かとっても重要なキーワードになっていて、中島先生以外の人からも「利他」という言葉を聞くことが多くなっています。「利他」というのはやっぱり、ひとつの行動みたいなことだと思うんですよ。料理も行動ですから。だからお金とかいう結果とは違う、私たちが向かっていく道中にあるものが「利他」だと思います。それは心が動く情動の場でもあるんです。・・・