こんな世界の見方があったんだ、と新鮮でした。
P223
第2章で述べたように、資本主義はありとあらゆるものを「商品」へと変えようとする志向性を持ちます。だから、僕らの目の前には、購入された「商品」と、対価を支払ったことで得られた「サービス」が溢れているわけです。それらで覆い尽くされていると言ってもいいでしょう。
しかし、だからこそ、その中にぽつんと存在している「商品ではないもの」に僕らは気づくことができるのです。
他者から贈与されることによって「商品としての履歴が消去されたもの(値段がつけられなくなったもの)」も、サービスではない「他者からの無償の援助」も、市場における交換を逸脱する。それゆえに、僕らはそれに目を向けることができ、それに気づくことができるのです。
だから、贈与は市場経済の「すきま」に存在すると言えます。
いや、市場経済のシステムの中に存在する無数の「すきま」そのものが贈与なのです。
P234
・・・贈与はそれが贈与であるならば、宛先から逆向きに、差出人自身にも与えられる。
それは等価ではありません。まったく質の異なるものが、両者の間を行き来するのです。
その使命感とは「生命力」そのものです。
「受け取ってくれてありがとう」
「困った時に私を頼ってくれてありがとう」
これらは、差出人の個が何かを与えられたと感じたからこそ発することのできる言葉ではないでしょうか。
宛先を持つという僥倖。宛先を持つことのできた偶然性。
贈与の受取人は、その存在自体が贈与の差出人に生命力を与える。
「私は何も与えることができない」「贈与のバトンをつなぐことができない」というのは、本人がそう思っているだけではないでしょうか。
宛先がなければ、手紙を書くことはできません。
そして僕らは手紙を書かずには生きていけません。
「宛先としてただそこに存在する」という贈与の次元があるのです。
僕らは、ただ存在するだけで他者に贈与することができる。
受け取っているということを自覚していなくても、その存在自体がそこを宛先とする差出人の存在を、強力に、全面的に肯定する。
もはや一体どちらがどちらに贈与しているのか分からなくなり、「受取人」と「差出人」が刹那のうちに無限回入れ替わるような事態があります。
差出人と受取人が一つに溶け合ってしまうと言ってもいい。
ここではもはや、「与える/受け取る」という階層差はなくなり、並列的な関係へと変わります。
だとすれば、「私はあなたからかけがえのないものを受け取ることができました」というメッセージを届けること自体が、一つの返礼となるのではないでしょうか。
言葉にする必要はありません。自身の生きる姿を通して、「お返しはもうできないかもしれない。けれど、あなたがいなければ、私はこれを受け取ることができなかった」と示すこと自体が「返礼」となっている。
・・・
「すでに受け取ったものに対する返礼であるのならば、それは自己犠牲にはなりません」
第1章の最後でそのように語りました。その理由は、今述べたとおりです。
自身が受け取った贈与の不当性をきちんと感じ、なおかつそれを届けるべき宛先をきちんと持つことができれば、その人は宛先から逆向きに、多くのものを受け取ることができるからだったのです。
だから贈与は与え合うのではなく、受け取り合うものなのです。
贈与はすべて、「受け取ること」から始まります。
「自分はたまたま先に受け取ってしまった。だからこれを届けなければならない」
P242
なぜ僕らは「仕事のやりがい」を見失ったり、「生きる意味」「生まれてきた意味」を自問したりしてしまうのか。それが「交換」に根差したものだからです。
ギブ&テイク、ウィン、ウィン。残念ながら、その中から「仕事のやりがい」「生きる意味」「生まれてきた意味」は出てきません。
これらは、贈与の宛先から逆向きに返ってくるものだからです。
それが、メッセンジャーとなり、アンサング・ヒーローとなり、贈与の宛先から逆向きに仕事のやりがいと生きる意味を与えられるための道なのです。
ただし、ここでは注意が必要です。
「仕事のやりがいと生きる意味を与えてもらいたいから贈与する」は矛盾です。完全なる矛盾であり、どうしようもない自己欺瞞です。そんなモチベーションでは、やりがいも生きる意味も与えられません。
不当に受け取ってしまった。だから、このパスを次につなげなければならない。
誤配を受け取ってしまった。だから、これを正しい持ち主に手渡さなければならない。
誤配に気づいた僕らはメッセンジャーになる。
あくまでも、その自覚から始まる贈与の結果として、宛先から逆向きに「仕事のやりがい」や「生きる意味」が、偶然返ってくるのです。
「仕事のやりがい」と「生きる意味」の獲得は、目的ではなく結果です。
目的はあくまでもパスをつなぐ使命を果たすことです。
だから僕は差出人から始まる贈与ではなく。受取人の想像力から始まる贈与を基礎に置きました。
そして、そこからしか贈与は始まらない。
そのような贈与によって、僕らはこの世界の「すきま」を埋めていくのです。