思いがけず利他

思いがけず利他

 「世界は贈与でできている」を読んで、この本を読んでみようと思いました。

 

P14

 私が「利他」という問題を考える際、その核心に迫っていると考える落語の噺があります。「文七元結」です。・・・

 この噺の主人公は長兵衛。腕のいい左官職人です。しかし、あるときから博打にはまってしまい、仕事がおろそかになってしまいました。妻のお兼と娘のお久は、貧困生活を余儀なくされます。家財道具や着物は、大方売ってしまい、家にはわずかばかりの生活用品しか残っていません。それでも長兵衛は博打をやめず、なかなか家に帰ってきません。

 ある日のことです。長兵衛が博打を終えて家に帰ると、お兼の様子がいつもと違います。聞くと、お久が昨晩から家に帰ってこず、あちこち探したものの、見つからないと言います。困っていると、そこに吉原の「佐野槌」という店の番頭がやって来て、「うちへ来ていますよ」と言う。長兵衛は妻の身につけている着物を借り、吉原に駆けつけました。

 すると、佐野槌の女将が出てきて、長兵衛に説教を始めます。せっかく腕のいい職人なのに、博打ばかりして家族を困らせている。時に暴力まで振るう。娘は家を出て、吉原に「身を沈める」ことで、お金を作ろうとしている。「長兵衛さん、悪いと思わないのかね。どうする気なんだね」

 女将は一つの提案をします。今から五十両を貸すので、真面目に働いて、来年の大晦日までに返しに来ること。それまで娘は自分が預かり、用事を手伝ってもらう。もし、約束を守れず、五十両を期日までに返せなければ、娘は店に出す。「どうする長兵衛さん、性根据えて返事をおし……」

 長兵衛は女将と約束をし、五十両を受け取ります。そして、女将に促され、娘に礼を言います。これまで威張っていた父が、自己の不甲斐なさを突きつけられ、娘に頭を下げるこの場面は、落語家にとって腕の見せ所です。

 店を出た長兵衛は、帰り道を急ぎます。そして、浅草の吾妻橋にさしかかったところで、一人の若者が川に身投げをしようとしていることに気づきます。慌てて若者を抱きかかえ、飛び込むことを阻止すると、若者は涙ながらに「どうぞ、助けると思って死なせてください」と懇願します。事情を聞くと、取引先から預かった五十両を道で盗まれたと言い、店の主人に申し訳が立たないと話します。何度も長兵衛が止めるものの、ふとした隙に、若者は川に飛び込もうとします。

 ここで長兵衛は苦しみます。懐には先ほど借りたばかりの五十両がある。これを若者に渡せば、彼の命を救うことができる。しかし、この五十両は娘が作ってくれたお金で、これを手放してしまうと、借金返済は不可能になる。どうするべきか。

 長兵衛は悩み抜いた末、五十両を差し出します。そして、大金を持っている事情を話し、娘が客を取ることになっても悪い病気にかからないよう「金比羅様でもお不動様でもいい。拝んでくれ」と言います。そして五十両を投げつけて、その場を去っていきました。

 若者の名は文七。彼は五十両を手に店(近江屋)に戻ると、盗まれたと思っていたお金が届いており、取引先に置き忘れてきたことがわかります。文七は動揺します。そして、吾妻橋で死のうとしていたところ、名も知らない人から五十両をもらったことを主人に打ち明けます。

 主人は五十両を差し出した男に感銘を受け、番頭を使って探し出します。やっとのことで家を突き止め、文七と共に五十両を届けに行きます。

 主人は長兵衛に五十両を返却したあと、「表に声をかけてくれ」と言います。すると、そこにはきれいに着飾った娘のお久が立っていました。五十両を佐野槌に渡し、着物を買い与え、お久を連れてきたのです。

「お久が帰ってきた」と長兵衛が言うと、着物を夫に貸して、裸のままのお兼が飛び出してきます。親子三人、その場で抱き合って涙を流します。その後、文七とお久は結婚し、「文七元結」という小間物屋を開業した。これが「文七元結」という噺のあらすじです。

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 談志は、一九九二年の高座を収録したDVDに「文七元結」を収録し、次のようなコメントを添えています。

 

 世の中、これを美談と称し、長兵衛さんの如く生きなければならない……などと喋る手合いがゴロゴロしてケツカル。大きなお世話である。

 

 談志は、長兵衛の贈与を「美談」とすることを拒絶します。長兵衛が文七に共感し、青年を助けたいという良心を起こして五十両を差し出すという解釈を退けます。

 談志は一体、長兵衛の行為をどう捉えているのか。ここに私は贈与を考える重要なポイントがあると思っています。

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 談志は「講談」と「落語」の違いに言及します。例えば忠臣蔵赤穂浪士が主君の仇討ちのために吉良上野介の命を奪い、全員切腹になる話ですが、「講談」と「落語」では、同じ素材を扱っても、全く別のものになると言います。

 忠臣蔵の主題は「成せば成る」。講談は討ち入りをした人たちの忠義を描きます。人間の格好良さを描くのが講談です。

 そして言います。

 

 落語は違うのです。討ち入った四十七士はお呼びではないのです。逃げた残りの人たちが主題となるのです。そこには善も悪もありません。良いも悪いもいいません。ただ、〝あいつは逃げました〟〝彼らは参加しませんでした〟とこういっているのです。つまり、人間てなァ逃げるものなのです。そしてその方が多いのですョ……。そしてその人たちにも人生があり、それなりに生きたのですョ、とこういっているのです。こういう人間の業を肯定してしまうところに、落語の物凄さがあるのです[立川1985:20]

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 人間は、平凡な日常を生きていくために、非凡な知恵を発揮しています。談志は、そんな「平凡の非凡」を抱きしめます。人間は愚かで間違いやすい。時に誘惑に負け、身を持ち崩すこともある。しかし、人は世の中と折り合いながら、たくましく生きていく。騙されることがあるかもしれない。騙すこともあるかもしれない。ルールを破り、痛い目に遭うこともある。業の深い存在としか言い様がない。そんな人間のどうしようもなさを肯定するのが、落語の醍醐味だと言います。

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 落語はどうしようもない人間を見つめてきた。「業の肯定」こそが、落語の本質だと考えてきた。その観点からすると、人間の利他性を描く「人情噺」をどう捉えればいいのか。長兵衛が文七に五十両を差し出した理由を、どう考えればいいのか。これがどうしても腑に落ちないと言うのです。

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 一体、長兵衛の中で、何が起きているのでしょうか。

 当然このとき、長兵衛は未来の結末を知りません。この五十両を差し出したことが、のちに自分に幸福をもたらすとは考えていません。のちのち自己への利益・恩恵となって返ってくるとは、思ってもみなかったでしょう。・・・

 五十両を出すことと、未来の利益の間には、この時点で因果が成立していません。・・・

 長兵衛は、大切な娘を救う手立てを喪失しました。彼が直面したのは、自己の徹底的な無力です。・・・そんな彼は「拝んでくれ」と懇願するところまで追い込まれています。

―拝むこと。祈ること。

 長兵衛に宿ったものとは何なのか。

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 自分はどうしようもない人間である。そう認識した人間にこそ、合理性を度外視した「一方的な贈与」や「利他心」が宿る。この逆説こそが、談志の追究した「業の肯定」ではないでしょうか。・・・