岸田奈美さんの本を読みました。
いろんな感情やいろんな視点がてんこ盛りで、しかも笑いながら読めて、でもせつなかったり、ユニークな文章だなぁと思います。
P159
・・・ある日突然、優しくされるのがイヤになった。
優しい人は好きだ。優しくされるのがイヤなのだ。多くの人はわけがわからんと思うだろうけど、わたし自身もわけがわからんかった。直感でイヤだった。
LINEやSNSで「岸田さんと会えて、元気になりました」「今朝書かれていた文章、すごくよかったです」・・・など、いろんな関係性の人から、いろんな優しいメッセージが日々届く。
調子のよいときはしっかりと同じ文量と熱量で返せる。でもほとんどは当たりさわりなく一行だけで返すか、それすらもめんどうになり、既読スルーをして、会話を無理やり断ち切っていた。野生動物のように、急激に距離をとって逃げてた。やばすぎ。
「こんなに優しい人おらんやろ」と太鼓判を押されている人とお茶にいっても、なんだかいたたまれなくなり、目をあわせず生返事をくり返して、そそくさと席を立った。
仕事をかかえすぎてしんどい顔をしていたわたしに「なんでも手伝うので、いってください」といってくれた後輩にも、そっけない態度をとり、突き放した。
優しさを求めていたはずが、優しさに触れれば触れるほど、人間関係に疲れ果てていく。
なんでやねん。どないやねん。
・・・
注がれる優しさと失われる人間関係におびえながら、わたしは一生ひねくれたまま過ごすのかと混乱していたら、一冊の本が、魔法のように恐怖を取りはらってくれた。
その本は、近内悠太さんが書いた『世界は贈与でできている』・・・だ。
タイトルがすべてを表している。この本では、わたしたちは誰かから贈与されることでしか本当に大切なものを手に入れられず、この世界は贈与のくり返しで成り立っているということが一貫して語られている。
じゃあ、優しさも贈与なのかな。受け取れないわたしって、世界にふさわしくないのかな。
自信を失くしながら読んでいると、ある段落で視線が止まった。
善意や好意を押しつけられると、僕らは呪いにかかる。
(中略)
そう、僕らがつながりに疲れ果てるのは、相手が嫌な奴だからではありません。
「いい人」だから疲れ果てるのです。
これはわたしのことだ。
善意や好意を〝押しつけられる〟とまでは思ってないけど、逃げて苦しみ、関係性まで断ってしまう衝動は、もはや呪いだ。
同時に、この一文で救われた。
呪いにかかるのは、愛と知性をきちんと備えていることの証でもあるのです。
愛と知性。わたしにとって、これほどのほめ言葉はない。わたしが悪人だから、呪いにかかるわけではなかったのだ。ちょっとホッとした。
わたしは愛の形を知っている。だから、人から注がれる愛の尊さも、それがないことの苦しみもわかる。
だけど、それゆえに、わたしは無意識な呪いにかかってしまった。
「自分が返せる自信のない量の愛を、むやみに受け取ってはいけない」という呪いに。
・・・優しくされたら、返さなくちゃダメだ。だけど、・・・20人、30人に優しくされたら。
物理的にとても返せない。
返せないわたしはクズだ。
きらわれるのがこわい。
だったらきらわれる前に、逃げてしまおう!
これが優しさを追い求めたのに優しさを受け取れなかった、わたしの呪い全貌である。書いてみて押し寄せてくる、ひどさ。
わたしも後ろめたいし、優しい人もかわいそうな、絶望のルーティーン。
呪いを解くにはどうしたらいいのか、近内さんは本の中で教えてくれた。
贈り物はもらうだけでなく、贈る側、つまり差出人になることのほうが時として喜びが大きいという点にあります。
たしかに、自分の誕生日を誰にも祝ってもらえないとしたら寂しい。でもそれ以上に、もし自分に「誕生日を祝ってあげる大切な人」「お祝いさせてくれる人」がいなかったとしたら、もっと寂しい。
宛先を持つという僥倖。宛先を持つことのできた偶然性。
贈与の受取人は、その存在自体が贈与の差出人に生命力を与える。
言葉にする必要はありません。自身の生きる姿を通して、「お返しはもうできないかもしれない。けれど、あなたがいなければ、私はこれを受け取ることができなかった」と示すこと自体が「返礼」となっている。
相手に、優しさに見合うだけのお返しをしなくとも、ただその優しさを受け取ることに莫大な意味があるというのだ。目からうろこ。
・・・無償の愛こそが「贈与」で、見返りを求めるのが「交換」だ。
わたしは他人からもらっていた贈与を、勝手に交換にメタモルフォーゼさせていたということか。それが礼儀だと信じながら実際は、礼儀どころか贈与の連鎖を身勝手に断ち切っていた。
・・・
贈与は、もらった人に直接返さない方がよい。なぜなら交換になってしまうから。だけど、この世界は贈与でできている。断ち切ってはいけない。じゃあどうすればいいのか。
またわたしが、別の人に贈与をするのだ。
好きなときに、好きなだけ。・・・