退屈のすすめ

退屈のすすめ

 こんなふうに想像できたら、楽しいだろうなぁ、すごいなぁ、と思いました。

 

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 空想するということは、ひとつの物語を自分でつくるということである。目に見えるようにまざまざとイメージを再現し、話を発展させていく。その空想世界の中に自分を置き、現実の生活では到底できないような行動を、つぎつぎにひき起こしてゆかなければならない。私は子供のころからそんな遊びが好きだった。

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 ・・・私は子供のころから、いつも夢を見ていたような気がしていた。歩きながらも、本を読みながらも、遊びながらも、自分のしていることとは別な空想の世界に身を置いていたのだ。それは今なおそうである。

 新幹線の車中でぼんやりしているときも、外国へ飛ぶ飛行機の中でも、どこかのレストランで食事をしているときも、ベッドにもぐりこんで眠りが訪れてくるまでの長い時間をじっとすごしているときも、常にそのときそのときの勝手な物語を空想し続けて時をすごす。自分を物語の主人公として、ありとあらゆる空想を試みるのだ。

 あるときはメジャー・リーグのピッチャーであり、あるときは全英オープンで活躍する最年長のプレイヤーであり、あるときはビル・ゲイツをしのぐベンチャー・ビジネスの雄であり、あるときは京都の祇園に流連する維新の志士であり、あるときはCIAを手玉にとるテロリストであり、あるときは、いくら使っても減ることのない無限の預金のあるクレジット・カードの所有者であり、要するにそのようなありとあらゆるばかばかしい空想を精密に夢見ることで、私はこれまで一生の日々の、かなりの時間を使ってきたような気がしてならない。

 そこには、法律も関係なく、個人的な能力の限界もなく、道徳もなく、すべてが可能なのだ。世界を動かすことすら自由にできるのである。それが夢の世界だ。

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 空想に耽るということは、他人に迷惑をかけないうえに、自分の心身にとっても実は非常にいいことであるらしい。頭のトレーニングになるだけではなく、体の免疫力を高め、自然治癒力を高める働きもあると私は勝手に思いこんでいるのだ。

 癌の療法の中には、自分の体の中の良い細胞が癌の悪い細胞を制圧していき、それをやっつけ、しだいに治癒していく過程を綿密に想像する療法があることはよく知られている。

 本当は夢と現実との境目などないのではあるまいか。想像するということは自分で物語をつくることだ。そしてその物語を「信ずる」ことによって、歴史や、科学や、宗教や、哲学などが生まれてきた。私は、学問というものはすべて想像の産物であり、物語であると信じている。私たちは「鰯の頭も信心から」という言葉を、からかい気味に口にすることがあるが、それを単なる揶揄や冗談と私は受けとることをしない。たとえ一匹の鰯の頭であっても、それを信じ、それに帰依することによって、立派にひとつの世界が生まれるのだと思う。鰯の頭をばかにしてはいけない。それも夢野久作となる大事な条件のひとつである。

 私は現実の生活で満たされないとき、いつも夢の中でそれを果たそうとした。子供のころよく見た夢の中に、おいしそうなまんじゅうがあって、ようやくそのまんじゅうをつかみ、ぱくりと口に入れようとした瞬間、目が覚めるという情けない場面がしばしばあった。

 そういう夢がつづくうちに、私はその限界を克服しようと真剣に考えた。なんとか口にまんじゅうを入れ、そのねっとりとした餡の甘さを味わうまで、夢から覚めないようにできないものか、と、あれこれ工夫したのだ。

 目が覚めようとする瞬間、それに抵抗して夢を引きのばそうとする。しかし、そんな試みは無駄だ、と、やがてわかってきた。夢だと思うから覚めるのだ。まんじゅうを手にして頬ばろうとするその瞬間、意識がもどってきそうになる夢と目覚めとの中間のあたりで、私は自分に囁く。

<これは夢ではない。これは真実だ。いま手にしているこのまんじゅうは本物だ。それを信じろ>と。

 夢を信じ、その側に体の重みをかけることに少しずつ慣れてくるにしたがって、私は覚めようとする夢を、ごくわずかではあるが、引きのばすことができるようになった。そしてあるとき、手にしたまんじゅうをぱくりと口に入れ、その餡のねっとりとした甘さまでを、あますことなく口中に感じることができたのである。

 

 ところで3日ほどブログをお休みします。

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