だれでもあり、だれでもない

エンデと語る―作品・半生・世界観 (朝日選書)

アントロポゾフィー」という言葉は、ギリシャ語の「人間」を表すアントロポスと「叡智」を表すソフィアとを合成した語で、シュタイナーが自らの思想を指して使ったものだそうです。

 

P131

子安 ここで私が、「そしてアントロポゾフィーは、ミヒャエル・エンデの構成要素になりきった」というとしたら?

 

エンデ 私は、そうでありたい、と願っています。

 そう、ちょうど弓道の真理に似ています。的を射ようという目標を忘れたときに、はじめて矢は的中する、と。

 

子安 オイゲン・ヘリゲルの『弓道における禅』、あれもエンデさんの愛読書にあげられていましたね。あのなかでもとくにクライマックスの「有心と無心」の章が、『私の読本』に引用されています。意図を捨てよとの師の指導に、ヘリゲルさんが絶望的になり、ほとんどあきらめかけてしまうところと、ついにある日、「私」ではない「それ」が矢を放った、という劇的なくだりです。師匠はそのときおじぎをして、このおじぎは、射手にたいするものではなく「それ」にむかっての敬意だといい、ヘリゲル氏は、正しい射が「私」の作為なしにひとりでのように放たれるとはどういうことなのか、説明がつかない、と言っています。おなじようなことを、エンデさんも、物語を書くときに経験なさいますか。

 

エンデ まったくその通りです。およそあらゆる芸術、あるいは芸術精進の本道は、この禅の原理にもとづかないものはない、と言ってもよいでしょう。・・・矢がひとりでに放たれる状態になることです。「それ」が射てくれるのを待つことです。

 ・・・

子安 『私の読本』には、私たち日本人に親しいものがもうひとつ出てきます。それも冒頭に。あの有名な荘子の「胡蝶の夢」です。

 ・・・

 荘子は、蝶になった夢を見る。目がさめてみると人間だ。すると自分は、ほんとうは蝶なのか人間なのかがわからない。蝶が人間になった夢を見ているのか、人間が蝶になった夢なのか……。

 ・・・

 ちなみに日本語の訳や解説では、蝶か人間かを分別くさくつきとめなくてよい。蝶も荘周なら人間も荘周、万物が自在に変化しあう「物化」の世界が実在なのだ、とされます。だから、「周と胡蝶とは必ずけじめあり。此を之れ物化という」のところは、夢と現実とのおのずからなる往き来にまかせ、その往き来のままにすべての実相を楽しもうではないか、という一切肯定のひびきになります。・・・

 ・・・

エンデ ・・・荘子は、現象の互換性を言ったんじゃありませんか。荘子はタオの立場をとる人ですよね、彼の思想のすべてには、タオがひそんでいる、つまりあらゆる外的現象、個別現象は、最終的には消滅する、と。で、この最後のヴァントルングー「変容」は、やはり「意識の変容」でしょう。・・・人間が究極的にある境界を超え出たならば、外なる現象間の相違は存在しなくなる、というのではありませんか。つまりタオの見地から見るならば、万物に本質的違いはなくなる、と。

 私が、荘子を巻頭においたのは、この本の最後にふたたび同じ思想が、まったくちがう表現で出てくることになるのを念頭においたからです。つまりボルヘスが、シェークスピアについて言った、あのふしぎな言葉「彼のなかにはだれもいなかった」です。これを聞いた人は、たいていめんくらいます。ボルヘスがいうには、シェークスピアは、あまりにも多くの人間であったため、読者には彼の自我がどこにあるのか見つけられない。彼は、だれのなかにもいる。オセロのなかにいる、マクベスのなかにいる、リチャード三世にも、デスデモーナにも、シェークスピアがいる。すべての登場人物内に彼がいて、それでいてだれのなかからも彼個人の声は聞こえない。彼は、その人物たちにしか語らせない。

 シェークスピアその人はどこにいるのか?彼は声なきところにいる。彼がつくった全作品の背後に立つ存在、すべての芝居を構成し秩序づける自我、それがシェークスピアだ。だから、彼は、だれでもあり、だれでもない。