悟りを開いたような?

イタリア人の働き方 (光文社新書)

神さまか仙人と話しているような気分になるという、実業家のお話です。

P151
 このソロメーオ村に、「世界に他に例がない」と評判の名物実業家ブルネッロ・クチネッリ(四九)がいる。
 どこが特殊なのかというと、クチネッリはれっきとした事業家ながら、会社経営の第一目的を<金銭的な利益追求>とはせず、<人間としての尊厳を保つこと>としているのである。・・・
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「新しく社員を採用するとき、私はその人の履歴書などは見ません。ごく簡単な質問をするだけ。『あなたの夢は、何でしょうか?』と。
 夢を持たない人、あるいは自由な発想で夢の世界を飛び回れない人は、我が社には必要ありません。いっしょに夢を分かち合えないからです。私の指令に従うだけの、<下僕>のような社員は要りません。夢を実現するために、いっしょに戦ってくれるような<仲間>が必要なのです。
 こうした観点から人材選びをすると、管理するための時計もタイムカードも不要です。社員はそれぞれ、自分の仕事を認識し高い責任感を持って働いています。全員が工場の鍵を持っていて、いつでも好きなときに出入りできるようにしています」
 自分の夢を信じる、というモットーをクチネッリが持つようになったのは、ある日本人医師の言葉に影響を受けてのことだった。そのパオロ・ナガイという医師は、長崎の被爆者だった。癌に倒れた医師は、
「すばらしい夢を持ちなさい。長い人生、その夢だけを追いかけてごらん。夢のある人生というのは、幸せなことです。夢を追いかけると、毎日がとても新鮮だ。短いと感じる人の一生は、実は長い。長いと感じる一生は、しかしやはり短いものなのです。皆を幸福にするような夢は、一人の力だけでは実現できないものです」
 子供たちにこんな言葉を遺して、逝ったのだという。
 この医師の言葉にクチネッリはひどく感銘を受け、心の中に焼き印のように深く強く刻み込まれた。以来、忘れたことがない。
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「会社の基盤は、人です。<儲けなくていい>ということを申し上げているわけではありません。利益を出せない企業は倒産し、せっかくの夢も泡となって本末転倒でしょう?ただ利益を出すことだけが目的でない、それ以上に重要なことが生きていればあるでしょう、ということなのです。経営者である私の個人預金額がいくら増えても、何の意味もないことです。私は、自分が作る商品を通して夢を広めたいのです。
 尊厳高く美しい夢を追う。より多い収入を得るために働くのではなく、夢実現のために働く。私がそう申し上げると、『きれい事を言っている』と、まともに取り合わない人は多い。やがてはイタリア国内外に、私と同様な経営方針を持つ企業家が増えることを望みます。
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 ブッダアッシジ聖フランシスコも、世界各地のさまざまな神々も、<富めることは、所有することではない>と異口同音に説いているでしょう?
 丘陵から下方に見える村を指しながら自分の娘たちに、『ここに見えているものはすべて、将来、お前たちのものだよ』というようなことは、私は言いません。自分の所有物だとは思っていないからです。私にたまたま夢や発想が湧いて、事業として成功した。それはいわば天命のようなもので、皆に幸せな形で還元できればいいと思っています。将来もし、他の夢やアイディアを思いつくようなことがあれば、この事業から新しい夢実現へと移るのはいっこうに問題ではありません。
 全力で一つのことに集中して取り組む、ということは、それを一生続けなければならない、ということではないでしょう?もし他の場所で自分が必要とされれば、そしてそこに新しい興奮や感動があるだろうと感じれば、私は迷わず望まれたところへ行くと思います」