聞き書き世界のサッカー民

 

聞き書き 世界のサッカー民 スタジアムに転がる愛と差別と移民のはなし

 世界中の熱心なサポーターを通して見えてくること、とても興味深かったです。

 

P218

「コロナ禍の無観客試合を経験してわかったことがある。あの人たちがいないとつまらないんだよ。あのうるさいバカどもがいないと全然おもしろくない」

 とサッカーライターの友人が言ったので、ウフフとなった。この数年間、たぶん世界中でそのことが確認されたはずだ。

「応援する人」はほんと、どうかしている。仕事も家庭もほったらかして、何百キロも離れたアウェーゲームに駆けつけるなんて正気の沙汰じゃない。それも「これは遊びじゃないんだ、俺が行かなきゃ負けるんだ」と信じて、なけなしのお金をかき集めて戦いに行くのだ。

 とここまで書いて、チームの応援のために戦いに行くことができる世界は平和でいいなぁと思う。本物の戦争が起きたら、兵士たちは「俺が行かなきゃ負ける」とか「命がけで戦えないやつは腰抜けだ」などと信じて出かけていくことになる。そんな遠征は、心の底からまっぴらだ。

 

P82

 サッカー大国メキシコのサポーター・・・

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 プロフィールの1行目に「チワワ州ファレス市在住」とある。そこはメキシコ麻薬戦争の激戦地。もっとも危険だったのは約10年前、殺人事件につぐ殺人事件、ついには「世界一危険な街」と呼ばれた。・・・

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「子どもの頃は、毎日がルチャ・リブレとサッカー」

 ロヘリオさんは楽しそうに回想した。・・・

 1980年代のファレスはいまよりずっと安全で、子どもが路上で遊ぶ風景がごく普通に見られたという。多くの男子はまず「カニカ」に興じる。土の上でビー玉を転がして穴に入れる、メキシコの伝統的な遊びだ。やがてルチャ・リブレごっこが流行りだし、最後はサッカーに夢中になる。

「ぼくは足が速かったからフォワードでした。最初はプレーするだけだったけど、小学校に上がるとみんな贔屓のチームを見つけてテレビで応援するようになるからね。ぼくもプロの試合を観るようになった」

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「好きな選手はカルロス・サルシード。不屈のディフェンダーって感じがして、すごくよかった」

 不屈―それはロヘリオさんにとって大事なキーワードだということが、だんだんわかってくる。ちなみに好きな映画は『フォレスト・ガンプ』で、やっぱり主人公の不屈の生きざまに惹かれるんだとか。

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 2009年12月。家に帰る途中、ロヘリオさんの車が銃撃された。1発、2発、3発……なんとロヘリオさんは7発の銃弾を撃ち込まれた。「たぶん誰かと間違えられたんだと思う」と振り返る。車に同乗していた友だちは一目散に逃げてしまった。ロヘリオさんは血まみれで置き去りにされた。

「意識はずっとありました」

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「左目を撃たれていて、自分は死ぬんだなと思った。まだ小さかった子どものことを考えました。妻にももう一度会いたかった。だから神様に祈りました。もう一度チャンスをお与えくださいって」

 ずいぶん長い時間が経ってから警察がやってきて、被害者にまだ息があることが確認され、そこでやっと救急車が呼ばれた。・・・ロヘリオさんは九死に一生を得たが、その左目に光が戻ることはなかった。

 ひと通り当時の状況を説明したあと、ロヘリオさんは左目のふちを撫でながら笑っている。

「数ミリずれていたら死んでたよね。ハハハ」

 いや、ハハハって言われても。ことばを失い、質問がすぐ出てこないわたしの代わりに、嘉山さんが「怖い体験をして、トラウマになったでしょうね」と話をつないだ。ロヘリオさんは明るいトーンで答える。

「事故のせいで落ち込んだり、人を恨んだことはないです。カウンセリングを受けたこともない。片目を失って悲しいより、生きていることがうれしい気持ちが優ってる。残念ながらこの街では銃撃も殺人も誘拐もしょっちゅう起こります。だからこそ、助け合って生きる方法を考えたい。事件のあと、ますますそう思うようになりました」

 わたしと嘉山さんは思わず(パソコンの画面越しに)顔を見合わせた。なんなんだ、この不屈の精神は。

 現地NGOの調査によれば。2007年からの3年半にファレスで殺害された人は5500人以上。麻薬カルテル同士の殺戮の応酬があり、そのうえ取り締まる軍や警察もじゃんじゃん銃をぶっ放す。無関係の市民が巻き込まれるケースも多い。犯人はほとんど検挙されない。それがファレスの現実だ。そういう街では、絶望せずに生きることが最大の抵抗なのかもしれない。

「もとの体には戻らないけど、ぼくはサッカーもダンスもできるよ!」

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 ・・・いまも地域の子どもたちを支援する仕事を続けている。教えるのはパソコン、履歴書の書き方、そしてサッカー。

「サッカー?」

「そう。週に2回、子どもたちを集めてサッカーを教える活動をしています。この街には社会から見放されてしまった子が多い。サッカーを通して『自分には価値があるんだ』とか『他人と協力すると楽しいんだ』ってことに気づいてほしい」

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「このメソッドの最大の特徴は、レッドカードやイエローカードはなくて、その代わりにグリーンカードとブルーカードがあることです」

 チームメイトのことを考えてプレーした子には「グリーンカード」が出され、独りよがりのプレーには「ブルーカード」が出される。ここで褒められるのは、うまいプレーや強いサッカーではない。「いまのは仲間を思いやるパスだった!」「いい声かけだった!」。そんな賞賛とともに緑色のカードが掲げられるのだ。参加者は5歳から17歳。

「参加者の中には、貧しくてスポーツをする機会がなかった子、や、それ以前に人の痛みを想像する機会すらもてずに生きてきた子がいます。そういう子がグリーンカードをもらうと本当にうれしそうで」

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「サッカーには、〝いま〟がある。ここでサッカーをしたことが、意味あることとして彼らの記憶に残ればいいと思っています」

 あぁ、それだ。わたしはロヘリオさんのことばを噛みしめる。

 わたしのような運動が苦手などんくさい人間であっても、ボールを追っているときは無心になれる。うまくいかない仕事もモヤモヤする人間関係も家族の心配事も忘れて、ワーワー騒ぐことができる。きっとファレスの子どもたちも、ほんのいっとき、つらい過去も未来の不安も忘れて無邪気な心を取り戻すことができるんじゃないかと思う。

 誰も―自分自身すら―信じられずに生きてきた子が、自分の価値に気づき、仲間がいる高揚感を学ぶ。その記憶は一生残るはずだ。きっとこの先、子どもたちの人生にはさまざまな困難が待ち受けているだろう。ときどき、ボールを蹴った日々を思いだして明るい気持ちになれますように、と願わずにいられない。

 

 

 ところで3日ほど、ブログをお休みします。

 いつも見てくださってありがとうございます(*^-^*)