魔女に会う

「作家」と「魔女」の集まっちゃった思い出 (角川書店単行本)

 草笛光子さん、笹本恒子さんにつづいて角野英子さん・・・人生の大先輩のお話はとても興味深いです。

 

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 ・・・円も自由化されてなく、海外旅行もできない時代、でもブラジルなら移民として行かれると知ると、結婚したばかりだったこともあって、その半年後には二人で片道切符を握って船に乗り込んでいた。まことにせっかちなコスモポリタンだったのだ。・・・

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 私はこの町で一人の魔女?に出会った。本人にそう告白されたわけではないので、いいきることはできないけど。私には魔女としか思えなかった。名前はクラリッセ。私より三歳ほど年上の二十七、八。コピーライターをしていて、とりのくん製の商品名はチキンをもじって「チキーニョ」にしようなんて考えていた、そんな人だった。

 初めて会ったのはサンパウロの日本映画館のロビーの片すみ・・・振りむいた顔は燃えるような赤毛にかこまれ、ちょっと離れた目は翡翠の緑色、煙草の煙にいぶされた声は見事なハスキーボイスだった。・・・「明日、あたしの家にいらっしゃいよ。海辺よ。ここからバスで十五分」といった。海辺とは……このサンパウロには海辺のかけらもないはず。・・・

 次の日訪ねた彼女の家はアパートの三階のワンルーム、一方に大きな窓があって、細い通りをへだてて木立の深い庭が見えた。「床に寝ころがって目をつぶって」いわれたとおりにすると、すぐビーチの意味がわかった。むこうの庭の木々が風に吹かれて音を立てている。ざざーざざざー、波のように。・・・

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 こんな彼女の家にはいろいろな人が集まってくる。まず同性愛の男性たち、・・・「あんたは偏見がなさそうだから特別」と私は同席をゆるされた。・・・今から三十年も前カトリック信者の多いブラジルでのことだ。恐らく肩身の狭い想いをしていたはず。クラリッセの部屋は彼らの解放区なのだった。「だれを愛したっていいわよね。あたし、木だって鳥だって愛していいって思ってるの。同じ星に乗ってるんだもん。でもねえ、あんなきれいな男の子が女の子嫌いだなんて、これは残念」

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 その後、少しずつクラリッセの生い立ちのようなものが私の耳に入ってきた。生れはリオ・デ・ジャネイロ。大きな銀行の創業者の孫で、一人ずついる弟と妹はちょっと桁外れのセレブ。彼女自身はハーバードとソルボンヌ大学卒。七ヵ国語を自由に話す。何かの拍子に彼女は自分の家のことを話したことがあった。

「あたしは、お金、あったんだけど、全部使っちゃったのよ。だから今は何もなし、家族もなし」

 彼女はすっからかんというように両手をぱんぱんとはたいてみせた。

 そんなクラリッセが、私が帰国して一年ほどたったとき、ひょっこり日本に現れた。・・・そしてすぐ六畳一間を借り、銭湯にかよう暮らしを始めた。仕事も自分で見つけてきた。・・・

 ・・・

 そして三年ほどたったとき、突然彼女は姿を消した。仕事先から問い合わせが来る。困っていると、パリからハガキが届いた。

「今、パリ、あたしは元気、すべてOK」

 文面はたったのこれだけ、住所も書いてない。なぜ、一言の別れの言葉も告げずに行ってしまったのだろう。・・・

 それからまた二年ほどして、今度はブラジルの彼女の弁護士から手紙が来た。

「クラリッセの居所を知らないか。もし知っていたら、彼女の叔母が少なからず遺産を彼女に残しているので、某月某日までに自分のオフィスに出頭するように伝えてほしい」というのだった。でも彼女は居所しれず。私はその旨を弁護士に書いて送った。

 それからまた三年ほどして、私はたまたま京都に出かけていった。すると、京阪の地下の入口をクラリッセらしい赤毛の後ろ姿が駆け下りていくのを見た。「あっ!」電気が身体中を駆け抜けた。私は人目も気にせず大声で彼女の名を呼んで追いかけた。振り返ったのはやっぱりクラリッセだった。

「どうしたの、なぜなの。どうしたの」

 そういいながら、私の目からは訳もなく涙があふれてきた。クラリッセは当惑したように私の肩を叩くばかり。やっと落ちついて、これだけは伝えなければと思い遺産のことをいうと、彼女は首をすくめて「もう日にち過ぎちゃったもん。いいわよ」というのだった。連絡だけでもしてみたらと、なおも私が続けると、「もう終わり、あたしには関係ないわ」と、こんなときいつもやったように両手をぱっぱとはたいてみせた。住所を教えて、という私に「ないのよ。旅行中だもの」と首をふる。そして、「チャオ、エイコ」と一言、身をひるがえして、階段を走り下りていってしまった。・・・それから、私はずーっと彼女のことが気になっている。

 あんなにこだわらず自在な生き方をする人を私は他に知らない。片手をすいと空にのばして、自分に合ったものだけ手に入れる。決して余分のものを望んだりしない。私にはそれが美しい魔法のように思えるのだ。

 ・・・

 ・・・大人になると、目に見えるものばかりが大切に思えてくる。家族を持てば、それが一層大きくなる。空の底にひそんでいるどこか暗い、でも力のある空の色。水平線が見せてくれる心の踊るマジック。人を支えてくれる目には見えないもう一つの世界があることを、私は忘れかけていたかもしれない。それを彼女は知らせてくれたのだ、と今は思える。・・・

 このクラリッセは、ブラジルを舞台に書いた私の作品「ナーダという名の少女」のモデルになった。