女のイイ顔

田辺聖子のエッセイ-女のイイ顔 (単行本)

 久しぶりに田辺聖子さんのエッセイを読みました。

 

P10

 なかんずく私は「気を取り直す」というのが好きで、これは今までにもあちこちに書いた。めげたり、落ちこんだりしたときに、気を取り直すことができるかどうか、これは私は才能の問題だと思っていたが、健康の問題でもある。

 しかし五体満足で内臓も文句なく機能しているのに、落ちこみがちで、その上その毒をまわりに吹きつけ、関係ない人をも落ちこませる人も多いところをみると、

(こりゃ、やっぱり才能の問題かな)

 と思う。そこで私は、出された色紙に、

「気を取り直す才能」

 と書いたりした。するとまた、

「いや、その才能はありません、才能に見放されてます―私、やっぱりダメですね」

 となお落ちこむ人もあるから困ってしまう。

 私もそういう才能があるはずもないが、物書き、という仕事は気を取り直すことで保ってるところがある。・・・

 そしてそれは、何がキッカケかというと、食事をしたり、一夜ぐっすり眠ったりしたあとに、そういう気分になることが多い。

 そこで私は、

「とりあえずお昼」

 というコトバと、

「一夜あければ」

 というコトバが好きなのである。

 ・・・

 仕事の面でもそうだったが、三十何年の間に私はさまざまの運命にも出あい、思いのほかの結婚もしたりして、困難な状況にもぶつかることがあった。

 夫と二人でいくら考えてみても、どうしていいかわからない。

「とりあえず、お昼にしない?」

 というと、夫も、(それどころではない!)というような男ではないから助かる。

「そうや、めしにしよう!」

 と叫ぶ。

「心配してもしようがない」

 そして二人でたっぷりと食事をとる。心配ごとと食欲は別である。

 食事をしてしまうと気が大きくなり、楽観的にものごとを考えたくなってくる。

「そのうち、ひょっこり戻ってくるわよ」

「金がないようになったら帰るやろ、あのアホが」

「だけど、とりあえず警察へ届けときましょうか?」

「うむ。届けるのに判コか何か要るのかな」

「さあ。今まで誰も家出なんかしたことないから分からない」

「写真は持っていこう」

「どこへアルバム置いてるのかな。……これじゃいけない?」

「そんな幼稚園のときの写真、どないすんねん。いま高校生やないか」

 それは下の男の子が家出のまねごとをしたときのことであった。それから上の男の子が学園紛争のまねごとをして家に戻らなかったとき。身内のもめごと、病気。いろんなトラブル。行事。

 折衝して連絡して。あやまりにいったり、とりなしたり。

 思いつめてしまうと食事をとるのも忘れてしまう。カッカとしてこの道はゆきどまり、とつい思いつめ、悲観的になる、そんなとき、

「とりあえずお昼にしよか」

 というのが私は好き。

 いろんな出来ごとを身の上に重ねてきて、

「とりあえずお昼にしよ」

 というコトバ、それから「とりあえず寝てしまお」というコトバが好きになった。

 むろん、お昼でも夜のゴハンでもいいのだけど、そういうとき、その食事で、

(あ、ちょっとお醬油をさしたいな)

 と思ったら、そこは面倒くさいと手をぬいたりせず、ちゃんと立ってお醬油をとってくる。(それどころではない)といいたいときもあるけれど、それどころって、どんなところであろうか、私はこのトシになってみると、

「とりあえずお昼」

 と、

「とりあえず寝る」

 ことより、以上の大事な事はないように思えてきた。

 ・・・

 失恋したとき。人に裏切られたとき。

 それからそれへと思いつづけていると、心もそらに、胸は息苦しく、涙も涸れてにがいかたまりが咽喉をふさぐ。そういうとき、自分で自分にいってみる。

「とりあえずお昼にしよ」

 と。そのためには「クマのプーさん」のプーのように、いつも時計を十一時五分前にしといたら面白いな。プーは、十一時になると何かちょいとつまめると思うと嬉しいので、プーの時計はいつも十一時五分前なのである。

 ・・・

 ・・・せっぱつまって頭に血がのぼったり、もうアカン……人生ゆきどまり、と感じたとき、

「とりあえずお昼にしよ」

 と声に出していうことにする。それと、「ボチボチいこか」を組み合わせると、何とか、うまく切りぬけられそうな、立ち直れそうな気がするのだけれど。