自由

寂しい生活 魂の退社

 この清々しさ、わかる気がする・・・いいなぁ・・・と思いつつ読みました。

 

P126

 これまで延々と書いてきたように、家電製品のほとんどを手放すという事態は、私の生活だけでなく、精神状態と言いますか、物事の考え方を大きく変えてしまった。

 つまりは、なきゃやっていけないものなんて、この世の中に果たして本当にあるんかいなという「危険なギモン」がふつふつと沸いてきたのである。

 私が節電において手放したのは、つまるところ「電気」である。たかが電気、されど電気。私たちは知らず知らずのうちに、電気がなくては1日も生きていけないような暮らしぶりを身につけている。掃除も洗濯も食事も、つまりは衣食住という暮らしの基本において、家電はまるで空気のごとく、私たちの生活にがっちりと組み込まれているのである。

 なので停電を経験するとほとんどの人が、いかに自分が電気がないと何もできないかにいちいち驚くことになる。現代人はプラグにつながれてようやく生命を維持していると言っても過言ではない。

 しかし私は原発事故に背中を押され、その生命線を一つ一つ抜いていった。

 恐る恐る。

 ある意味死ぬんじゃないかと怯えながら。

 しかし結果的に、なんとかなってしまったのである。

 しかも、あれほど「なきゃ生きていけない」と思っていたものが、驚いたことに「なきゃないでなんとかなった」。それどころか「意外に楽しい」、いや「実に面白い」、いやいや「ないほうがまったくもって清々しい」のだ。

 それは私が頭の中でイメージしていたような、「節電=我慢・忍耐」というようなシロモノとはまったく次元の違う世界であった。・・・

 ・・・

 そう、「自由」。

 それまで私はずっと、自由とはお金をたくさん手に入れて好きなものを手に入れることだと思っていた。でも本当の自由って、もしかしてそんなもんじゃなかったんじゃないか?

「何かを手に入れなければ幸せになれない」という思い込みは、振り返ってみれば自由どころか不安と不満の源泉であった。なぜなら、何かを手に入れてもすぐに次の「欲しいもの」が現れるからだ。いつまで経ってもゴールはない。

 本当の自由とは、その思い込みを脱すること、すなわち「なくてもやっていける」自分を発見すること。もう何も追いかけなくていいんだと知ること。それこそが自由だったんじゃないか。

 でもみんな、そんなふうには考えない。だから私のことを「えらい」とか「頑張ってる」とか「我慢して可哀想」だと思っている。だから超節電生活も「いつまでやるの?」と真面目に心配してくださる。

 でも「やめる」なんてありえないのだ。仮に、1億円あげるから冷蔵庫を使ってちょうだいと頼まれても、私はもうなんの迷いもなくきっぱりと断るであろう。いやホント!だってそれは、せっかく牢獄から脱出したのに再び手錠をかけられにいくような行為である。

 そんなことがどうしてできるだろう?

 で、ふと気づくと私の視線は次のプラグに向けられていた。

 そう、「会社」という巨大なプラグに。

 つまりは「電気」という必需品だけでなく、「給料」という超必需品をも手放してみようと思ったのである(まあ乱暴ですね)。

 その結果どうだったか。結論を出すのはまだ早いかもしれない。しかし今のところ、「なきゃないでなんとかなる」。いやそれどころか「意外に楽しい」、いや「実に面白い」、いやいや「ないほうがまったくもって清々しい」……ところまで行けるだろうか?

 でも実を言うと、きっと行けるに違いない、そんな気がしているんだよね。